2008年9月10日水曜日

病を去る

私は青年期に少々武道に関わりました。そのときの貴重な体験のひとつに、防具なしの打撃練習があります。これには実に精神を鍛えられました。日々屈強な人 たちに混じって殴り殴られ、蹴り蹴られしていると、フッと透明な心境になっていく瞬間がありました。私はこれらの練習を通して、様々な学びを得ましたが、 得たのは当時ではなく、社会に出てからのことです。とくに足法を行ずるようになってからは、さらにその経験が活きるようになりました。あの日の経験から得 たもの、それは、集中すると人間の能力は常識を超えることがあるということです。もちろん、日々の練習あってのことですが。私は武芸全般に興味があり、時 々その種の本を読みます。読みながら拳法や足法を通して感じ得たものがリアルに甦ることがあります。

徳川二代将軍秀忠の兵法指南役を務めた柳生宗矩(やぎゅう・むねあきら)という人物がいました。彼が晩年に作成した「兵法家伝書(ひょうほうかでん しょ)」は、現在でも我々の処世の指針として通用するものと云われ、座右の銘にする人も多いと聞きます。その中の一節に次の言葉があります。

『勝たんとひとすじに思うも病なり。兵法を使わんとひとすじに思うも病なり。習いのたけを出さんとひとすじに思うも病なり。待たんとばかりに思うも病な り。病を去らんとひとすじに思い固まりたるも病なり。何事も心のひとすじに、とどまりたるを病とするなり。この様々な病、みな心にあるなれば、これらの病 を去って心を整えるなり』

これは、私たち人間の陥りやすい執着のことを云っています。ひとつの傾向に意識の固着を招くのはよくないということです。大体にして大家とか、先生とか、 プロフェッショナルといわれる人たちほど陥りやすい傾向があります。またその逆で、無知なるが故の固着もよろしくない。

練習に練習を重ねて、探求に探求を重ねて、その上で自分の心を自由自在な境地に置くことが大切なのです。こう云うと必ず「自由とは何か」という質問が出ま す。その質問に私は敢えて乱暴に答えましょう。自由とは事に当たって「平常心」でいることのように、いまの私のレベルでは感じます。そして平常心とは、一 切の道理を理解し、しかしそのすべてを心に留めるのではなく、サラリと捨て去り、心を空虚にして、虚心で事を行うことではないでしょうか。

昔の剣術家たちは、戦いの真っ只中にあって、練習したことを思いだすことなど決してありえません。とっさに出るのです。仮に練習では学ばなかった動きを相 手がしたとき、迷っている暇もなければ、考えている暇もありません。瞬時に体が動かなければならないのです。剣の早さは1/80秒と云われています。迷っ た瞬間、命はありません。

私は、この家伝書に触れたとき、まさに足法の極意に通じるものを感じました。みなさんも個々人で感じていただきたいと思います。足法は実に合理的にま とめられた整体術です。ひょっとすると般若心経のようなものかもしれません。膨大な技の集大成であり、かつ全体でもあるからです。

これらの技の基本を繰り返し練習し、その真髄に対する探求姿勢を継続できれば、健康の何たるかを知ることができるでしょう。そして、命の妙に触れることもできるのだろうと直感的に思っています。

私がかつて体験した「透明な心境」とは、神経が研ぎ澄まされている状態、集中力の極限において、時間が止まって見えたり、相手の動きがスローモーションに 見えたりしたこと。なにも考えていないのだけど、体が勝手に反応している状態、それを私は・・そう感じたのだと思います。つまり、これもひとつの虚心の状 態といえるのではないでしょうか。

足法を行ずるにあたり、私はいつも、足の裏の力を抜くことを強調します。足の裏の力を抜くためには、体 の力を抜かなければならず、体の力を抜くためには、心の緊張を解かなければなりません。言わばそれは、自由な心でいることであり、平常心で臨むことにほか なりません。それが「病を去る」ことに繋がるのだと思うのです。

01.2.27

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