2008年9月18日木曜日

非まじめ

 俗に「まじめ、不まじめ」という表現はありますが、「非まじめ」という言葉は耳にしたことがないと思います。不と非ではどう違うのか、参考までに漢和辞典を調べてみますと⋯『不は、一般的に動詞・副詞・形容詞などを否定する。非は、〜ではないと選択的に否定する語。無は、有に対して存在を否定する語』とあります。細かいことは別にして、不も非も無もすべて否定的に用いるわけですが、コピーライター的な発想で捉えると必ずしも漢和辞典と同じ気分にはなりません。

仮に500円玉はどんな形をしているかと質問したら、あなたはどう答えますか。“まじめ”な答えは「円」となるでしょう。「三角です」と答えたら“不まじめ”になります。しかし、「長方形です」と答えたとしたら、これは十分に“非まじめ”な答えだと私は思うのです。なぜなら、500円玉を横にして眺めたら確かに長方形でしょ。

随分前置きが長くなりましたが、人間生きている間にどんどん「常識」に犯されて、思考の柔軟性を失ってしまいがちです。例えば、一流大学を卒業した人は優秀である。社会的地位の高い親元で育った子供はちゃんとしている。協調性のない人は悪い人だ。のろまはよくない。体育よりも算数のできる子の方が賢い、等々引っ張り出したら切りがありません。

あなたはそう思っていませんか、と問い掛けると、「いえ私はそんなことありません」と答えた人の方が、私のこれまでの経験では圧倒的に多かったと記憶しています。

ここでひとつの例を挙げてみます。ある病気についての療法をAさんとBさんがCさんに話しました。そしてCさんは、Aさんの話したことを全面的に取り入れました。その理由は、Aさんは医者で、Bさんは単なるサラリーマンだったからです。Cさんは、病気については医者が専門家という概念でいっぱいでした。その結果、Bさんが自らの闘病を通じて学んだ経験則的な意見をいまひとつ信用しきれなかったのです。そして、Cさんは医者の言う通りの療法を実行し、結果的に不本意な状況を招きました。もしもCさんが、自分の心の声を素直に聞ける感性があったら、Bさんの意見も十二分に考慮できたはずです。しかし、病気=医者という“まじめ”な発想しか持ちえなかった。Bさんの意見を取り入れることはCさんにとって“不まじめ”なことだったのです。

私のいた(いまも片足突っ込んでますが)広告業界を例にとっても同じです。デザイナーとかコピーライター全員が素晴らしい制作アイデアをもっているわけではありません。むしろ、概念に囚われて四角四面の発想しかできない人が驚くほどいます。しかし、社会的にはポジションを確保しており、デザインの話をデザイナーが専門用語を多用して話すと、いくら優れた素人が自説を叫んでも、一般の人々はどうしてもデザイナーの方を信じてしまいます。しかし、見るべき人が見ると圧倒的に素人の説の方がユニークだったりすることもあるのです。

この原因は、日本人の伝統的なものなのか、はたまた戦後教育のツケなのか、安直な結論づけは避けますが、私が残念でならないのは、アメリカやヨーロッパで評価されたものは、ほぼ確実に日本でも評価されるという現実です。研究者、プロスポーツマン、画家、音楽家、その他日本で認められない実力者たちが、こぞって海外にチャレンジの場を見つけ、日本にいるときとは打って変わって活き活きと暮らしていることです。
その理由は、西洋人の囚われのない感性や柔軟な発想に惹かれ、そして敬意を感じているからでしょう。そのような感性を、私は“非まじめ”な思考・視点と比喩しているのです。

せめて、この足法自然塾に集う人たちは、「常識」という概念を是非とも“非まじめ”に捉えていただきたいと願っています。常識と摂理は違います。常識は時代時代の反映であり、絶対的価値、不変的価値ではないのです。あなたが“非まじめ”になればなるほど、あなたとあなたを取り巻く環境は、ウイットと明るさに満ちることを私は信じて疑いません。なぜなら、“非まじめ”な態度とは、物事を多角的にみることであり、創造的であるからです。

ノーシーボ

 第二次世界大戦前のヨーロッパで、ある実験が行われた。ブアメードという一人の死刑囚がいたのだが、彼は、医師から医学の進歩のためと、ある危険な実験を持ちかけられ、考えた末それを受け容れた。

その実験の目的とは、人間の体重の10%が全血液量と云われているが、医師たちはそれ以上であると考えており、そのことを証明したいということだった。

かくして実験は開始され、死刑囚の足の全指先が小さく切開された。そこから血液が足元に用意された容器に落ち、その音が実験室内に響き渡った。

ブアメードには1時間毎に累積出血量が告げられた。やがて実験開始から5時間が経ち、総出血量が体重の10%を超えたことを医師が告げたとき、この死刑囚はすでに死亡していた。

しかしながら、この実験では、1ccの血液すら抜き取っていなかったのだ。死刑囚には、足の指先を切ったと思い込ませ、ただ水滴の音を聞かせて、体内の血液が失われていると思い込ませていただけだった。これが「ノーシーボ」といわれる現象である。

この実験が何を意味しているかと言うと、「心と身体は本来別々ではない」ということである。つまり、否定的な暗示によって人間は命をも失うのだ。この実験の場合は、「全体重の10%の血液が失われると死ぬ」という暗示である。

この「ノーシーボ」には相対する言葉があり、これを「プラシーボ」と言う。プラシーボ効果という表現は、比較的多くが耳にしているはずだ。

 プラシーボ(placebo)とは、日本語では「偽薬」と訳されるが、語源であるラテン語(placeo)は、単に「喜ばせる」という意味であり、「偽」という意味はないという。医者から見て不要な薬を欲しがる患者を「喜ばせる」ための、気休めの薬という意味であったとされている。

さて、私はよく「想い」という言葉を口にする。「想い」は、私たちの肉体に現われる様々な現象の元になっている、というのが私の確信であって、この「想い」を上手に活用することで、奇跡のようなことも現実に起こりうると言いたいのだ。

ということは、「想い」を悪い方向に用いてしまうと、先のブアメード実験「ノーシーボ」のようなことが起こるわけだ。

足法をやっていると、よくいろんな人から病気の質問を受ける。ここが痛い、あそこが悪い、なかなか良くならない⋯etc. 

そんな質問をされる人たちをよくよく観察してみると、自らその症状に対する答え「否定的信念としての自己暗示」を持っているように感じることが多い。つまり、そのことが症状の改善を大きく阻んでいたりするのだ。

ハーバート・ベンソン氏(ハーヴァード大学医学部心身研究所・所長)は、「ノーシーボ現象は、我々の医学が著しく軽視してきた問題である。医師に助けを求めてくる患者の60〜90%は薬も手術も役に立たない。従って、信念体系を含む心身を制御する技法が求められている」と述べている。

また医学界のある研究者は「心身を分けて物事を考える西洋哲学の系譜から生まれた西洋医学が、この効果の解明に苦労しているのはもっともなことである」とも語っている。

私はかねがね、足法の実践に「想い」の活用を加えたいと強く思っていた。今後は、その効果を現実的にみなさんにも感じ取っていただけるよう展開していきたいと考えている。ただ「効く」と思うだけでは力不足であって、「効く」という思いに足る信念を確立していくことこそが重要なのだ。

その信念はどこから生まれるのかというと、それは日々の鍛練を通した実感である。この実感を得るための修行の場が足法自然塾であり、多くの氣を集中させて「場」に活力を与え、みなさん一人ひとりがプラシーボ(力を与える人)になっていっていただきたいと願っている。

当初は余計なことを考えずに、ひたすら踏み方を覚えていただきたい。まずは正しく順番通りに踏めるようになることが大切である。そして、ステップ毎に、より深く感じながら踏めるようになることが求められる。

ただ技術だけを追求していては、なかなか感じる領域に立ち入ることはできない。「想い」を十二分に活用しながら、能力を最大限に引き出していこう。そして自らからの内に潜む「ノーシーボ/否定的な暗示」を排除し、当塾で身に付けたものを日々の習慣へと昇華させて頂きたいと願っている。