2009年5月5日火曜日

なせば成る

なせば成る、なさねば成らぬ何事も、ナセルはアラブの大統領、なんて古い漫談のネタがありましたが、この歌を正しく表記しますと次のようになります。『なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の、なさぬなりけり』。

これは江戸時代に作られたものと言われており、その後、今日までずっと謳い継がれてきたしんげん箴言(戒め、教訓の意)です。

この歌が江戸時代に作られたと知って私が改めて思ったことは、太古より人間の在り方はまったく変わらないということです。

むしろ昔の方が、私たち人間は、より本質的な考え方や生き方をしていたからこそ、このような歌が生まれたのだろうと思うのです。以前、皆さんにご紹介した、鴨長明の方丈記もまた然りですね。

この歌のキーワードは「なす」。しかし、「なす」という行為の前に私たちは「思い」をもちます。その思いがあって初めて具体的な行為に表すことができるのです。

これも以前に私が皆さんにお伝えしたことですが、『思いの種を蒔いて行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔いて人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を借りとる』という西洋の格言。やはりここにも「思い」と行動の関係が謳われています。

私たちの行動はすべて「思い」の上に成り立っていることが分かります。ここで記憶術のオーソリティ、七田まこと眞氏が彼の研究を通して次のような興味深い発言をされていますのでご紹介します。

「右能の開き方はいろいろありますが、深い学習回路を開く方法にしかんあんしょう只管暗唱があります。1日に何十回となく声を出して暗唱を続けると開けるという頭の秘密があるのです。明治〜大正の頃、千葉県に山崎べんね弁栄という僧侶がいました。彼は本をパラパラと二三度めくっただけで内容をすべて理解し記憶した人でした。彼が21〜2才の頃、朝から晩まで念仏三昧に明け暮れました。そこから、人知れぬ不思議な能力が開けたといいます。ある時、長年どうしても治らない難病の婦人から治療法を聞かれたとき、一心に念仏を唱えなさいと教えました。すると、婦人の難病は数日で消えました。念仏には深い学習回路が開くだけでなく、深層の不思議な治癒力を引きだす力もあるのです」

ここで言う念仏とは、ひとつのワードや文章を意味し、それを無心に繰返し唱えること、つまり潜在意識に植え付けることによって、思いが現実のものになってしまうことを実例を挙げて氏は説明しています。

瞑想法のひとつに真言を唱えながら行うものがありますが、これもまた私たちの深層心理に潜む力を引き出そうとする手法なんですね。

私たちが「成す」ために、まず「なさ」なければならないわけですが、そこには「思い」という大切な要素があることを是非再確認してください。「氣が出た」と思って手をかざすと氣はでると私は言いました。しかし、その思いを疑ってかかる人はいつまでも氣はでません。あなたが成したいことは、まさに、なせば成るのですから、そのためにも、日々よい思いを抱いて、実現に向かって「なし」てください。

2002年5月

出逢い

足法を通じて、今日ここに、このように見知らぬ人たちが集っていますが、この広い日本の中で、いや世界の中で、因りによって集ったことは、果たして単なる偶然でしょうか。私はそういう考え方には立っていません。私と皆さんは、大いなる力、偉大なる叡智の導きによって、ここに出逢うことになったのだと思えてならないのです。

私もまた足法をみなさんにご指導させていただくまでに、必然的な出逢いが幾つもあり、その上で今日という日を迎えています。

これは私にとりましても、また皆さんにとりましても好機であるわけでして、この好機を明日からの暮らしの中で活かすことができるか否かが一人ひとりにとっては大変重要な意味をもつことになります。

かねがね私が皆さんに申し上げてきたことは、私は私の役目としてみなさんに足法をご指導しているにすぎないということです。まずなによりも、誰よりも私は足法という整体法が好きで、またその効果を高く評価し、惹かれ、追求・研究・実践している人間なのです。

これまで私は足法を通していろいろな人と出逢ってきましたが、中にはこんなタイプの人がいます。せっかく足法を学ぶ機会を得たにも関わらず、ちっとも楽しそうでなく、逆に不愉快にやっておられる。顏には、こんなことをやって果たしてどれほどの効果があるのやら??? と書いてある。また、ずっと足法を習っておられる方で、こんな症状なんだけれどもちっとも良くならない。何か良い方法はないか。

そうした人々に触れるたびに、人間の猜疑心の深さと依存心の強さに愕然とします。そのような方は、何に相対しても、まるで賭けでもするがごとく、「ほんとうに効くの?」というような姿勢で臨みます。

このような方たちは、多くの場合、あちこちの健康法に首を突っ込んでは効果のなさを相手のせいにし、自分の不幸を嘆き落胆するという共通点を見て取ることができます。

身体が痛い、しんどい、死んでしまいたいほど苦しい、そうした状況にある人は、もう藁をも掴む気持ちで治療者や治療法を追い求めているわけです。その気持ちはよく分かりますが、だからこそ、ひとつひとつの出逢いを疎かにするのではなく、そこには深遠な意味があり、天が与えてくれた好機なのだと受け止め、そして信じて継続していただきたいのです。禅病に罹ったかの名僧・白隠禅師ですら、その克服には年月を要したのです。

焦らず、怖れず、怒らずに、ひと足・ひと足、喜びと希望と祈りを込めて踏み、そして踏まれていただきたいと願っています。そのような姿勢は、間違いなく私たちに宿る自然治癒力を高め、細胞に活力を与えてくれます。健康は自らが勝ち得るもの、という考え方の根本がここにあると私は考えています。

2002年4月