2009年2月6日金曜日

生き方の本質を学ぶ(老子より)

 「日本人の脳」の研究で有名な、東京医科歯科大学の名誉教授、角田忠信氏によると、1995年11月20日午前を期して、脳の基本時間基準が変化したと発表されています。つまり、この時点で、宇宙的規模でなにか新しい時代に突入したのではないかと考える、専門家がいま多数います。

 確かに、私たちの周囲を見渡すとき、なにかこれまで(バブル経済を代表とする拡大路線)とは違う、人間の内なる要求が、現われてきているように感じます。

 例えば、なぜいま皆さんは「今」ここに集うのか。それは、健康でありたいからです。実は、それはとても本質的な行動であるわけです。老子もそのことを語っています。その要約を読んでみます⋯

 寵愛(上司や他人の目を気にすること)をうけるか屈辱をうけるか、人々はそれにビクビクして不安でいる。それは名誉とか財産とかいった大きな心配事を大切なものとして、我が身と同じように考えているからだ。寵愛と屈辱とにビクビクと不安でいるというのは、どういうことか。寵愛を良いこととし、屈辱を悪いこととして、うまくいくかとビクビクし、ダメになるかと不安でいる。それが寵愛と屈辱とにビクビクと不安でいるということだ。名誉とか財産とかの大きな心配事を大切なものとして、我が身と同じように考えているというのは、どういうことか。我々が大きく心配事を持つことになるのは、我々に身体があってこそのことだ。我々に身体がないということであれば、我々になんの心配事が起ころうか。してみると、身体こそが根本だと分かるだろう。だから、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを大切にするという人にこそ、天下を任せることができるし、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを労るという人にこそ、天下を預けることができるのだ。

 企業のために命を捧げることが会社人として当然の使命と考えられていた時代がありました。日本経済の右肩上がりを支えた人たちですが、前回にも申し上げましたが、それが楽しくて仕方ない行為であれば、それはそれでいいわけですが、そうでないことの方が圧倒的に多いわけです。

 しかし、時代は移り変わり、人々の意識も大きく変化した今、私たちは「個」、
個人の「個」に戻り、その本質に目覚めていくとき、自らと同じように他人も大切にすることを知ります。

お釈迦さんの話。

 我れが我れがと生きていても、実は全体の中で精緻なバランスがとられているわけで、まさにこれこそが宇宙律のなかで生きている所以です。

 幸せの秘訣、健康の秘訣は、なんの疑いもなく、宇宙の秩序に行動と思考を合わせていくこと。難しく考える必要はなにもありません。よく、人様に迷惑をかけない、という表現がありますが、むしろ、自分がしてほしいことは、他人もしてほしいし、自分がしてほしくないことは、他人もまたしてほしくないことなわけです。

 健康というものも、あの薬が効くとか、どこそこに整体の達人がいるから、といった、そういった外の声を聞くのではなく、自らの身体の内なる声を聞き届けることが大切であります。しかし、我れの欲求でいっぱいの人は、身体も心もカチカチに硬直して、自然感覚が希薄になります。気をつけたいですね。

 ここでもうひとつ、老子が「侍して満たすは⋯、つまり身の引き時」について語っていますので、ご紹介します。

 いつまでも器をいっぱいにして満たし続けようするのは、止めたほうがよい。鍛えに鍛えてギリギリまで刃先を鋭くしたものは、そのままで長く保てるわけはない。黄金や宝玉が家中いっぱいにあるというのは、とても守りきれるものではない。財産と地位ができて頭が高くなると、自分で破滅を招くことになる。仕事をやり遂げたなら、さっさと身を引いて引退する。それが天の道、自然の運び方、というものだ。

 私たちの、祖父祖母の暮らし方を思いだすとき、まさにそこには自然と一体となったものを感じます。いかに科学が進歩しようと、私たちは自然の恩恵をこうむって生きているわけで、いま一度、自分の生き方を見つめ、そのなかで、健康と対峙していただきたいと思います。

地限場限(じぎりばぎり)

 今年も残すところあと僅かとなりました。みなさんは今年一年を振り返って如何でしたか。月日の経つのが早い、という発言をよく耳にしますが、個人的に或いは社会的に、この1年間に起こったことを手繰ってみますと、やはり365日はそれなりに長く、春夏秋冬折々に私たちは機微に触れて生きていることを思い知らされます。

 マスコミを通じて私たちに届いてくる事件や事故の数は増加の一途を辿り、ひとくちに凶悪犯罪という表現では済まされない、人間の尊厳が問われるようなものが非常に多くなっています。

 それでいながら、そんな凶悪な犯罪や悲惨な事件・事故も、悲しいかなアッというまに色褪せてしまい、聞かれてもすぐには思い出せないほど、加速度的に新たな出来事が次々に発生しています。

 そんな最中、以前にもお話しましたが、ポール・ゴーギャンが死を決意し自らの芸術的遺書として描き上げた畢生の大作(1897年)その画題を私はときどき思いだします。

『我ら何処より来たるや
 我ら何者や
 我ら何処へ行くや』

 この問い掛けは、人類の誕生以来、永遠の課題であり、また永遠に答のでないものなのかもしれません。

 私もまたこのゴーギャンの問い掛けを同じく自らに突きつけ、もう随分長い間、考え続けてきました。もちろん、今現在みなさんに胸を張ってお伝えできる答えなど到底持ちえているわけではありません。

 しかしながら、思いきって清水の舞台から飛び降り(職を辞し)、時間に縛られることもなく日々自らに面と向かう生活を何年も送っていますと、時々天からおもしろい囁きが聞こえてきたりします。

 そのひとつに「原点に還れ」というものがあります。なんと自然で、またなんと大胆な言葉でしょうか。

 では原点とは何か、私の想いを語りますと、それは愛であり、善であり、健康であり、幸福であり、そして繁栄です。

 ところが最近の世の中を見渡してみますと、愛は薄れ、善は霞み、健康は崩れ、幸福は即物的になり、繁栄は歪んでいるように見えてなりません。

 しかし、このように渾沌とした時代にも己を取り戻すことはできます。例えば足法。相手の幸せを願い、自らの力量を常に謙虚に受け止め、ひと足、ひと足、祈りを込めて踏み進む、その一心の積み重ねこそが、徳を積むことであり、人生を好転させる秘訣、私が例えて云う水の流れに添うことであり、すなわちそれこそが生きる原点なのではないかと思うのです。

 日々の仕事にもまた同じことが云えます。奪うことを止め、分け合いましょう。謙虚になって感謝する気持ちを大切にしましょう。自らの繁栄だけでなく、相手の繁栄をも祈りましょう。幸福は、そんな態度に宿るのだと思います。

 若かりし頃、私は勤め先の上司から「文句言われりゃ頭を下げろ。下げりゃ文句が通り越す」と諌められた記憶があります。そのとき私は相手が文句を云っている間、頭を下げてやり過ごすと思っていたのですが、実は違うということをこの歳になって気づきました。

 頭を下げるということは感謝するということなのですね。歳を重ねると文句を云ってくれる人すらいなくなります。若いときに受けた諌言は、たとえその表現がどんなに辛辣であっても自らを鍛え育てるありがたい言葉なのですね。

 江戸時代の念仏僧、休心房が「地限場限」という言葉をよく口にしたそうですが、これは、事に当たってそのひとつひとつを、一生に一度だけの機会として受け止め、心を込めて臨む、言わば一期一会の精神に相通じると云われています。

 日常、私たちの周りで起こっていることを横柄に当り前の事として受け止めるのではなく、地限場限の精神で臨んでみましょう。

 この人とはもう二度と会えないかもしれない。この諌言はもう二度と聞けないかもしれない。この食べ物はもう二度と口にできないかもしれない。こんな時間はもう二度と過ごせないかもしれない。

 このような感謝の気持ちを積み重ねるうちに、ゴーギャンの抱いた画題が、ある日ポロッと解けたりするのかもしれません。

 みなさま、今年一年、学びの機会をいただきありがとうございました。来年も共に天井知らずの幸せに向かって歩みましょう。どうぞ、よいお年をお迎えください。