2008年9月10日水曜日

自分の言葉

「自分の言葉」⋯、これ、とても大切なことだと思いませんか。にも関わらず、私たちの多くが日々ちゃんと自分の言葉で話せているかというと「???」と言わざるを得ない。それ以前に、自分の言葉ってなに? という疑問すらもつ人がいるかもしれません。

昔から言葉は言霊といわれ、日本語の原形「カタカムナ」でも、音の重要性が謳われています。上っ面だけの言葉と、気持ちのこもった言葉では、相手に届く力が全然違うことの例を下記に記してみます。

私がまだ20代の半ばだった頃、知り合いから(当時流行っていた)あるマルチ商法の話をもちかけられました。健康マットを売るという類いのもので、俗に言う“ねずみ講”になっているわけです。

私は昔からその手の商売には関心が薄く、併せて商才もなかったこともあり、友人の説明を半ば上の空で聞いていました。すると、そんな私の無関心な態度につられて相手もリズムが狂ったのか、マニュアル通りの話がいつか脱線し始めました。

ところがその脱線話の中に、とても興味深い“トップセールスおばあちゃん”の話があったのです。そのおばあちゃんは、当時で年間億に手が届くほどの収入があったのです。その理由は簡単で、個人の売上げ(とそれに伴う組織的な子供作り)が群を抜いていたからです。

では、なぜそんなに売上げがあったのか、ということですが⋯、そのおばあちゃんは、かつて末期の癌だったそうです。しかし、知り合いにその健康マットの話を聞き、藁にもすがる思いで使用した結果、なんと、医者から見放されていた癌がすっかり消えてしまったのです。

それからというもの、おばあちゃんは、こんな良いものはないとすっかり信じ込み、寝る間も惜しんでいろんな人に、その癌を治してくれた健康マットを紹介して回ったそうです。

他のセールスマンが行くと胡散臭がられて、まったく話を聞いてくれないのに、このおばあちゃんが行くと、会場には溢れんばかりの人が集まり、話が終わると マットは見事に売れてしまう。マニュアル通りの売り口上ではなく、無心で自分の体験を話すおばあちゃんの姿が、聞く者の心を捉えたのです。

自分の言葉で話していたからなのです。「私はこの健康マットを使って癌を治したのです。この私の元気な姿を見てください」というこれだけの言葉に、他のセー ルスマンでは絶対に真似のできない説得力が生まれたのです。物を売るときにいちばん求められている“使用前・使用後”が目前にあるわけですから、これ以上 のセールストークはありません。相手を引きつけるセールストークの極意は、押付けない、売りつけないことといいますが、まさに、このおばあちゃんはそれを 自然に実践したいのですね。

そのおばあちゃんから買った健康マットを使って、他の患者さんたちの病がどれだけ治癒したか、具体的に私は確認していません。しかし、その健康マットの善し悪しとは別に、その気にさせた、或いは相手の心を動かした理由が実に明快ではありませんか。

聞きかじりや、机上学問の暗記から生まれた言葉の羅列だけでは、なかなか人には届きにくいし、ましてや人を動かすことなど、とてもできません。

人間という字は「人の間」と書きます。私という「人」が「間」を伴って初めて一人の人間になります。この「間」と「自分の言葉」には密接な関係があると私は考えているのです。すべてに共通することですが、落語や漫才でもよく「間」が論じられます。

あの落語家は実にいい「間」をもっている。とか、あの漫才師の「間」は絶妙だね、など。落語にしても漫才にしても、作り事を話すわけですが、だからこそ作品 の内容を字面だけでなく心で理解し、その上で自分の言葉にして話さなければ聞き手には届きません。つまり、笑って欲しいところで誰も笑わない、泣いてほし いところで誰も泣かないということになります。

気持ちのいい(相手を惹きつける)関係には、必ずといっていいほど適切な「間」が存在しています。もちろん言葉にも。そして、その「間」を表すものの一つが、まぎれもなく「自分の言葉」なのです。

健康マットを売ったおばあちゃんは、自分の体験から生まれた信念をそのまま言葉に置き換えることで、(一見怪しい商品を売っているにも関わらず)聞く人たちとの間に、絶妙の「間」を生みました。

しかし、近頃の“偉い人や有識者”たちは、どちらかというと責任からはいちばん遠いところに身を置きながら、権威や体裁を巧みに繕うために言葉を用い、あたかも自分が尊大であるかのように見せようとします。

この二者の行動の違いは、私たち足法を学び、行じるときにひとつの示唆を与えていると思いませんか。私にはそれが、「踏むことで語れ」というシンプルな言葉に聞こえます。

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