2009年9月21日月曜日

今人(いまじん)

『青春』
(原作:サミエル・ウルマン、邦訳:岡田義夫)

 青春とは人生のある期間を言うのではなく、心のようそう様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。

 年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

 苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こういうものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

 歳は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

 曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。

 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。

 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅く閉ざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。


怯懦(きょうだ) :臆病で意志の弱い様子
狐疑(こぎ)   :あれこれ疑問を抱いて決心がつかない様子
芥(あくた)   :ごみ・ちりの意
星辰(せいしん) :星の意。漢語的表現
欽仰(きんぎょう):うやまい仰ぐ意
剛毅(ごうき)  :気性が強く物事にくじけない意


多くの方はこのウルマンの詩の一節を耳にされたことがあると思いますが、全文を読まれた方は案外少ないかもしれません。

私は繰返し皆さんにこの邦訳も含めて格調高い詩をご紹介し続けようと思っているのですが、その理由は言うまでもなく、私たちの心の在り方の原点がそこにあるからです。

浜松医科大学名誉教授・高田明和氏の著書「脳から老化を止める」の中に次のような一節があります。「今まで神経細胞は生後は分裂・増殖しないとされていました。しかしそれは間違いだったのです。それどころか70才を超えた高齢の人の脳細胞も分裂することができるのです」これは米国サーク研究所のDr.エリクソンの実験から証明されたのです。

高田氏は著書の中で老化を防ぐ方法も書かれていますが、その中で私の心に強く残ったものは、「私は長い間“困ったことは起こらない。すべてうまくゆく”という言葉を繰り返し繰り返し自分に言い聞かせています。この同じ言葉を寝ながら繰り返すと眠くなるから不思議です。またそのように繰り返しながら寝て朝目が覚めると、非常に気分がいいので驚くことがあります」というものです。

これは私が普段から足法参加者の皆さんによくお話することですね。最近こういうお医者さんが西洋医学の分野でも少しずつ増えてきたことに私は大きな喜びを感じます。

病気の大部分が心身症と言われています。日頃気付かぬうちに抱え込んでいるストレスが大きく私たちの健康に影響しているわけです。常日頃からの心の在り方をもう一度自分自身で見つめ直してみてください。そして、もう一度、私たちは加齢と共に老いるのではなく、悲観的な態度が老いを招くのだと自らに言い聞かせていただきたいと願います。

恨み・つらみ・嫉み・そねみ、不平不満・愚痴・泣言・悪口・文句とは縁を切り、自分が心からワクワクすることを無邪気に楽しめる人は、例え高齢でも決して老人ではありません。何歳であろうと、まさに青春の真っ只中に生きる“今人”なのだと私は思います。

(2003年3月)

命と向きあう

先日、打ち合わせ先のロビーで少し待ち時間ができ、傍らのマガジンラックから何気なく一冊の「サライ」(小学館刊・3月20日号)を手にしました。昔から好きな雑誌の一つだったのですが、その中にある助産師のインタビュー記事が掲載されており、心魅かれるものがありましたので(出版社に問い合せた時点で在庫なし)抜粋して紹介します。足法習得を目指す皆さんの琴線に触れる部分も多々あるのではないでしょうか。

プロフィール:安保ゆきの(あぼ・ゆきの)明治44年、三重県生まれ。昭和8年、津市立病院付属看護婦養成所卒業後、名古屋鉄道病院に就職。外科の看護に12年携った後、結婚退職。昭和23年、安保助産所を開業。昭和62年、勲六等宝冠章受章。関連書籍に『ぬくもりの選択 安保助産所出産日記』(浅川千香子著)がある。

──誕生の瞬間はどんな気持ちですか。
「赤ん坊を取り上げるとき、私はいつも跪(ひざまず)いて両手で受け止めるんです。親でさえもまだ触れたことがない生まれたての赤ちゃんは、ご神体と同じ。気高くて、神々しい。それをこの手で受け止めるというのは、身が震える思いがする。助産師は、新しい命に仕えるの。その命を生む母胎に対しても同じで、とても失礼な気持ちではおれない。そもそもお産は病気とは違います。太古の昔から変わらない自然な営み。自然というのは待つことなんです。母親の体の状態と赤ん坊の元気、それが一致して初めてお産が進む。人間の意思によって、早めたり引き延ばしたりするもんじゃないと思っています。お産は一日のうちで実際に満潮時に一番多い。命は満潮に生まれ、やがて引き潮とともに終わっていくもの。自然に逆らって無理をしたら、お母さんの体に辛いところが残ったり、必ずどこかに歪みが出てくるからね。助産師は産婦に寄り添い、辛抱強く時が熟すのを待つ。陣痛促進剤、吸引器もメスも使いません。母子の持つ自然の力を信じて、最大限に引き出すお手伝いをするんです」

──助産師の手技は、奥深いものなんですね。
「産婦の体を傷つけないよう、なるべく楽に生めるように手を尽くすんです。いま病院では、赤ん坊を早く取り出すために、産道の出口を切開するのが当たり前になってますね。でも時間をかけて皮膚を温め、滑らかに保ってあげれば、充分に伸びて破けることもない。傷がない分、産後の回復はじつに早い。まあ助産師の仕事を10とすれば、こうした手技は2割ほどです。あとの8割は、精神的看護。妊産婦の心のケアが一番大事なの。あの陣痛は、女にとってこれほど辛いことはない。私も長男のお産のときは本当に辛かった。これは男には絶対に分からない苦しみやわ。どこの国の女性でも産婦はみんな、なりふりかまわず、“痛い、痛い”と叫びます」

──極限状態ですね。
「その苦しみに耐えるとき、年齢も学歴もきれいな服も、表面的なものは全部こそげ落とされて、産婦はみな三歳児に戻ってしまう。とにかく誰かそばにおって欲しいんですよ。でないと耐え切れない。涙を流して痛がる産婦に向かって、“痛いのはあんただけやないよ”なんて憎らしい言葉を吐く者がいたら、それは助産婦の資格はない。私たちは絶対に“ノー”と言ったらいかんのです」

──いつも、どんな言葉をかけますか。
「“ああ、痛いなあ。もうすぐやで。さあ深呼吸したら楽になるよ。おお、あんたはいきみが上手やで。だいぶ早いわ。ほれ、もうちょっと頑張りな。もうすぐ楽になるよ⋯”産婦の心の中に入って、産婦と同じ気持ちで話を交わすの。それが一番ええ薬。腰をさすってやりながら、励まして褒めてあげる。安心して緊張がほぐれれば、産道の収縮もよくなって楽になるから、お産が進むしね」

──望まれるのは、命そのものなんですね。
「8年前、大変な難産があったの。逆子でね。片方の足が一本出たきり、そこからどうにも進まない。この体勢で無理はできん。困り果てた。すると赤ん坊は、自分の力で体をググッとひねったんです。そしたらお尻がポッと出た。ところが今度は、後頭部の出っ張りが母親の恥骨に引っかかってつかえてしまった。この状態が続けば危険や。もしこの子に万一のことがあれば助産師をやめよう。腹の中で覚悟を決めたんです。時間が刻々と過ぎる。ああ、もはや万策尽きたか⋯。そのとき、ふっと声が聞こえた。〈耳の上には突起がない〉あっそうだ。恥骨にこめかみが当たるよう赤ん坊の体をひねった。すると後頭部の食い込みがはずれて、ぽんと出た。私はそのとき、1時間くらい経過したように感じたの。ところが、“いま、どんだけかかった”と助手に聞いてみたら、“10分です”と」

──優しいお子さんだったんですね。
「夏のある日のこと、樹の枝に蝉がいるのを見つけた。蝉は殻の背を割り、いままさに外へ出ようとしているところ。私は殻をきれいに剥いてやって、再び樹にとまらせたの。ところが翌朝、蝉の亡骸が樹の根元に落ちていた。ああ、死んどる。どうしたんかな⋯。それを母親に言うと、“生物が自分の力ですることを、何でそんないらんことした”と叱られた。自然の成り行きを見守り、じっと待つことかどれほど大事か。きっと神様が、子供の私に教えてくれたんやね」

──最近は、命を軽視した出来事が多いです。
「子宝は天からの授かりもの、とはよく言ったものです。尊い命を授けてくれた、目に見えない大いなる力の加護への感謝。そして生命への畏敬の念が込められた言葉ですね。ところが最近の若い夫婦は“子供を作る”という。そんな言葉の端っこには、母体に命が宿るところから、自分たちの意思で好きにできるという驕りが見え隠れしとる。芽生えた生命を、途中で摘むのも自分の勝手。命など、どうにでもなると思っていないか。人間が自由にできるのは、性行為だけです。命というのは、そんなもんと違うんよ。人間の欲望のまま、競うようにして精巧なロボットを作りあげたとて、魂はどうやって入れるのか。そこに何か後悔が残りはしないだろうか。そういう懸念を私は持ちます」

──倫理観が問われる時代ですね。
「命の始まりと終りは、決して人間の自由にならない。そこをしっかりと心得ないと。昔は自宅出産が普通だったでしょう。家族が見守る中でお産が行われ、年寄りは住み慣れた家で亡くなっていった。それを間近に見ることで、家族は命の尊さを学んだんです。ところが現代では、人は病院で生まれ、病院で死ぬ。家庭の中から、人の生死が姿を消した。何か、大きな忘れ物をしとる。人間は歳をとると、それまで当たり前だと思っていたことの不思議に気付くんです。十月十日でこの世に誕生する命、可愛い産声。自然と溢れ出るおっぱいを無心で口に含む乳飲み子。私には、そのすべてが神業に思える。私も92歳まで丈夫で仕事をやれていることを考えると、自分の体の細胞ひとつひとつに感謝しなくては。鏡に映るたび“よう働いてくれて、ありがとう”と言ってますよ。‖
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安保さんはこのインタビューを通じて終始、“自然”であることの意味を問い質しています。私も足法を通じて、時間が経つほどに自然というものを強く意識するようになりました。私たちの命も、その自然の一部なのです。

しかし、その體の自然な働き、目に見えない細胞の自然な働きは、決して永久無限のものではありません。加齢とともに衰えます。しかし、自然に則り衰えることは、無秩序に壊れることとは違います。つまり、それは豊かな衰えなのです。ところが、手前勝手な健康求道者たちは、生命システムの深遠なる叡知に気付こうとはしません。だから病気になるとその部分だけを見つめ、命という全体には向き合わずに敵視してしまうのです。

ですから私は施療に際していつも、患者さんが「神の叡知と一体になれますように」と祈りますし、もっと別の表現で伝えたりもします。相手の方が、神の叡知を戴いて自らの命そのものに向き合われたとき、初めて私たちの力も届きやすくなるのです。

神の叡知(宇宙を創造した叡知)⋯。陽は昇り陽は沈み、四季は移ろい、命は生まれやがて滅す。叡知は新たな叡知を生み、すべては輪廻する。しかし、この仕組みを解き明かした人を私は知りません。それは語るものではなく、感じるものなのでしょう。壊れた人間を技術だけで治せるものなら、この長い人類の進化の中で、既に達成していたに違いありません。それができないところに人の命の意味と神秘さがあるのだと思います。

縁あって踏む人と踏まれる人が集いました。踏むとは、お互いの心と體が「富む」ことでもあるのです。足法の経験を積み重ねるほど、技術だけに頭が支配されることなく、もっともっと自らの感じる力に心の耳を傾けていただきたいと願っております。

人の體は、いつも声を発しています。それを施療する側と、される側の当人が共に聞き届けて共鳴し合うところから、命は本来の力を取り戻そうとし、寿命を全うしようとする、私にはそのように感じるのてす。

毎日、TVの戦争報道に登場するイスラムの自爆死。方や、暴飲暴食とストレスで病死していく先進国の人間たち。前者にとって死は幸福となり、後者にとっては耐え難い恐怖となります。しかし、私にはその二つの死に、安保さんの「命の始まりと終りは、決して人間の自由にならない」という言葉が重なります。カタチは違えども、両者は神から授かった寿命に、意識・無意識的に手を加えているように見えてならないからです。

(2003年4月)

大麦小豆二升五銭

8年程前に読んだ本(「一回限りの人生」清水榮一著、PHP出版)の文中に大変興味深い一節があり、今でもたまにフッと頭を過ることがあります。

昔、四国の丸亀に一人の老婆がおり、この老婆のマジナイが病気に良く効くということで大評判になったそうです。そのマジナイとは、「大麦小豆二升五銭/おおむぎ しょうず にしょう ごせん」というもので、このマジナイを三回唱えて病人の患部を擦ると、どんな病気もたちまち治ってしまったといいます。

しかし、この話には落ちがありまして、ある時その場に立ち寄った一人の僧侶がそのマジナイを聞いて、金鋼経にある「応無所住 而生其心/おうむしょじゅうにしょうごしん(応に住まる処無くして其心を生ず)」であることが分かったのです。

「住まる処が無い」というのは、心が一ヶ所、一つに留まって淀まないこと、執着しないこと、拘らないことであり、そこに「其心を生ず」、つまり無碍自在の心の働きが現われるという意味です。

私はこの話に触れて、お経の「読み方、音」についてそれまでの疑問がスッと消えていく思いがしたのです。お経は、もともとお釈迦様が説法されたとするものを、後々にまとめられたものですが、そのお経は当然インドの言語で書かれています。

玄奘三蔵法師をはじめ多くの僧侶が苦労の末、インドから中国へお経を持ち帰り、そこで中国語に翻訳されました。そして、直接的・間接的に日本に入り、私たちは現在日本語の発音でお経を読んでいます。

お経は原語・原音で読まなければ意味がないと強調する人もいますが、この「おおむぎ しょうず にしょう ごせん」の話を聞きますと、大事なことは音や文字そのものよりも、そこに託された意味をありのままに信じる気持ちなんだということが、私にはよく分かります。

大阪にある浄土宗洗心寺のご住職からも、かつてこれと似たお話を聞いたことがあります。無学な老婆がいたそうです。その老婆がご住職に「どうしたら成仏できるか」と尋ねました。ただひたすら無になって南無阿弥陀仏と唱えなさいと言うと、本当にそれからというもの毎日熱心に念仏を唱えたらしいのです。それ以来、ご住職が見るたびに彼女は仏様のような邪念のとれた美しい顔に変わり、やがて幸せに天寿を全うしたそうです。

その話に付け加えてご住職が私に優しい口調で言いました。「立派な肩書きをもっている人ほどダメですね。頭で考えすぎて肝心なものが見えないのです。その点、あのお婆さんは立派でした。私の言ったことを、ひたすら信じて念仏を唱えつづけましたからね」と。

神通力を得たという、かの久米の仙人ですら、小川のほとりで洗濯していた若い乙女の、裾をまくり上げたなまめかしい姿に欲心を起こし、天上界を飛翔中に下界を見て墜落してしまったという話があります。仙人でも囚われると失敗するのです。

足法を上手になりたい人はたくさんいますが、技術だけに執着していては限界を超えられません。会員証の裏にある「足法句」を繰り返し読んで心に焼き付けていただき、その意味するところに向かって精進して頂ければ、いつの日か必ず大きなエネルギーとなって、より嵩い自分へ還っていくと私は思っております。

(2003年3月)