2009年7月26日日曜日

すでにある幸せ

2002年も残すところあと僅かとなりました。みなさんはこの一年をどのようにお過ごしになりましたか。満足のいく一年でしたでしょうか、それとも後悔を残した一年でしたでしょうか。

私にとりましては、悲喜交々いろいろありましたが、日々を楽しくという普段の思いを大切にできた一年だったと感じています。もちろん思うようにならないこともありましたが、そんな時にも、次につながるヒントが得られたと喜んでいます。

ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんの著書「愛をこめて生きる」のなかに次のよう一節があります。

『このかけがいのない一日を、不平や不満で埋めるのではなく、ありがたいものとして生きるとき、そこには、ささやかな幸せが生まれてくる。そのためには、自分の身のまわりに既にある“有り難いもの”に気づいて生きたい。日の出にも日の入りにも、中天にかかる月にも星空にも、さえずる小鳥にも一本の草花にも、感謝して生きたいものである。何十年に一度しか現われない星には大騒ぎしても、毎夜またたく星空には感激するどころか、いっこうに見上げようともしない、そんな心に私たちはいつしかなってしまった』

私のまわりには不平・不満を抱える人たちがたくさんいます。かく言う私もかつてはその一人でしたし、今でも時として頭を過ることがありますが、その留まる時間は以前に比べて驚くほど短くなりました。人間の一生を考えたとき、そのようなものに関わっている時間がもったいないと思うからです。

私はいま置かれている自らの立場の関係で、いろいろな方とお話する機会があります。病気の相談だけでなく、他の悩みをお聞きすることもあります。そのひとつひとつが各人にとっては切実であり、改善を心から願っていることが伝わってきます。

そうした方々に対して、私はただただ拝聴することしかできないのですが、ひとつだけ必ず申し上げることがあります。それは「問題の原因を相手だけに押し付けていては答えは出ない」ということです。

その反応には概ね二種類あり、「そんなこと分かってる」というものと、「え、何で私がっ!」というものです。この二つの反応、一見異なっているように見えますが、自分自身を問題の主人公に据えていないということに於て、実は同じなのです。

世の中には一個人の責任とはまったく無関係な出来事もあります。しかし、私が目にするケースの殆どは「私と誰か、私と何か」の関係から生まれた問題なのです。

問題の原因の主人公を自分にすることは決して容易なことではありません。しかし、相手にだけ押し付けていても解決は得られません。私にも非はあるかもしれない、でも相手の方がもっと悪いと思えるときにこそ、まず自分自身を省み、その中から僅かでも自らの至らなさを発見できたとき、その私は本当の意味で問題解決の糸口を発見できたのだと思いますし、“有り難いもの”に気付く心を宿す準備ができたのだと思います。

渡辺さんはこう続けています——『盗っ人にも、火事にも奪われ失われる心配のない宝、他人のそれと比べる必要のない自分固有の宝、平凡な生活の中で光彩を放つ宝、それは、当り前を輝いて見える、自分の“まなざし”であり、すべてを有り難いものとしていただく自分の“心”であろう。人間の幸せは、結局、その人の生活の中に愛するものがあるか否か、宝とするものがあるかどうかにかかっていると言っても過言ではない。真の愛とは、誰もが愛せるものを愛することではなくて、誰からも顧みられない、価値なきかに思えるものに注がれる愛である』と。

私の父が亡くなる一年ほど前、私はこんな質問をしました。「お父さん、ここまで生きてきて、いまこうした生活の中でどんな心境ですか」と。この質問にたいして父は、「雨風しのげて、三食いただけて、なんの不満があるか」という短い言葉を吐きながら、その目がとても澄んでいたのをよく覚えています。

会社という組織を飛び出し足掛け5年になろとするいま、両親から数えきれないほど与えていただいた示唆のなかでも、この父の言葉は、とりわけ大きな輝を放ちながらいまの私に迫ってきます。

傷つき、苦しみ、泣きながら、その中に捨てる勇気を持てたとき、私たちは初めて“有り難いもの”“すでにある幸せ”に心が向けられるのかもしれません。

2003年、みなさんが“すでにある幸せ”に包まれますよう、心よりお祈り致します。今年一年、ありがとうございました。

2002年12月

主に明け渡したとき、病がいやされた

横浜の延川さんは、太平洋戦争中、ニューギニヤ西部のマノクワリにいた。多くの兵士が、激戦と食糧不足、また過労に倒れ、マラリヤの高熱に苦しんだ。

延川さんも、この苦しみの中で、それまで持っていた信仰を捨てた。彼は思った。「神もへちまもあるものか。どうにでもなれ。物質こそすべてだ。米軍を見ろ。あれだけの物量があるからこそ勝てるのだ。これからは唯物主義だ」。

それまで真面目だった彼なのに、以来、部隊の食糧を盗んだり、酒・タバコをやるようになった。みんなから悪く言われるようになった。しかし彼は信仰放棄後、ますます健康を害し、悪性の吹き出物が全身にできるようになった。熱帯潰瘍と言われるものである。また、彼のマラリヤは慢性になった。二週間たって、彼の命は今日か明日までと思われるほどになっていた。

その病床で、彼の魂の奥底に「絶えず祈れ」との御言葉が響いた。彼はハッと我にかえり、息の続く限り祈る決心をした。体力は消耗の極に達している。しかし不思議に、祈ることだけはできた。今までの不信仰、神への忘恩、そのほか数々の自分の罪が、ありありと心の中に示された。彼は祈った。「神よ、赦したまえ。もし生きることが許されるなら、今度こそ、本当にあなたのために生きます」。

彼の心の中に、恵み深い神が宿られた。その時からのことである。彼は相次いで排尿をし、それとともに全身の吹き出物がひき始めた。 一夜にして、吹き出物は完全になくなってしまった。夜明けとともに、皆が驚きの目で見つめたのは言うまでもない。それから二カ月ほどで、マラリヤも完全に癒された。医者は言った。「まったく奇跡だ」。
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この文章はWeb中の「人生成功の秘訣」の中で紹介されたものです。私たちはこのような例をこれまでに耳にしたことがない人の方が少ないと思います。しかし、実感できる人もまた少ないのではないでしょうか。医者が言ったように「奇跡だ」で終わってしまいます。しかし、それは間違いです。私たちの思いは『神=大いなる力』と繋がっています。

私自身が27才のある秋の夜に、突然天空から降り注いできた光の矢によって救われた経験があります。また、29才の時には就寝したと同時「母が死ぬ」という天の声を聞きました。因に私は無宗教でしたし、また宗教や信仰に対する造詣もまったくありませんでした。しかし救われたのです。

両親の死後、私は日々祈るようになりました。にも関わらず、光は天空から降り注いではきません。その代わり、日々をよりよく生きるための直感力が向上しました。仕事を捨てたら足法がやってきたこともそのひとつなのでしょう。

祈り(=想い)は行動を生み、行動が習慣となり、習慣が人格を育て、人格が人生を実らせてくれます。人間、最後は祈りだ、ではなく、その究極の行動を日常にしましょう。そこに絶大な力が宿るのです。

2002年11月

チャンスの女神

みなさんよくご存知の表現に「チャンスの女神に後ろ髪はない」というのがあります。チャンスって滅多に来ないのだから、目の前に来たらしっかり掴まえないと、通り過ぎた後に思い直して掴もうとしても、掴む後ろ髪はないと云うものですが、果たしてこれは本当でしょうか。

しかもこの表現、云う側は解りやすいと思って用いるのでしょうが、よくよく考えてみると、実は解ったようで解らない表現です。さらに脅迫的で、失敗は許されないぞッ、という恐さも感じます。にも関わらず、意外と解った気でいる人が多くはないでしょうか。

チャンスって本当に一度逃がしてしまったらもう二度と訪れないものなのでしょうか? これまでの人生で、あなたはそうでしたか? もしもこの人と結婚していなかったら⋯、あの時あの人の云うことを聞いていたら⋯、あの時あれをしていたら⋯etc、こんな苦労は、失敗はしなくて済んだかもしれない、と考えれば切りがないわけですが、私が思うに、その後もきっと何度も同じようなチャンスはあったはずなのです。と言うより、私たちはチャンスの中に埋まって生きていると思えてなりません。ただ、そのチャンスに気付かないだけではないかと。

白隠禅師の座禅和讃に「⋯衆生近きを知らずして、遠くを求むるはかなさよ。例えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず⋯」という一節があります。

私たちそのものが既に仏であるのに、そのことには誰も気が付かない。それはまるで、水の中にいて喉が渇いたと文句を言ったり、裕福な家に生まれたのに家を飛び出し貧乏に喘ぐ姿に等しい、という意味です。

常々、私はこの和讃を読みながら、いろんなチャンスの中に埋もれているのに、強く手を伸ばせば届くのに、いつも自分は不運だとか、ちっとも恵まれないとか、悪いことばかり起こるとか、そんな愚痴や文句ばかり言っている私たちの姿そのものを見る思いがしてならないのです。
私は近頃、誰彼なしに云うこと⋯。それは、既成概念を取っ払って、素の自分で感じ、その感じを通して世の中を見渡してみようと。世間体や常識と云ったものすべてを一度頭の中から追い出して、そして改めて自分の周りを見渡してみようと。

そんなこと難しくてできない、という人が大勢いますが、その難しいということもまた既成概念なんですね。

そこで私が実践している方法は、“自分”が何をしたら楽しいか、“自分”はどんなことにウキウキ・ワクワクするか、今現在、自分を取り巻くすべての条件を無視して心の赴くままに考えることです。ああだから出来ない、こうだから無理、そんなことは取り敢ず横に置いておいて、どんどんイメージを膨らませてみるのです。子供の頃の夢や希望に日々満ち溢れていたあの時の自分に帰って、あれこれ好きに思いを巡らします。

人間は、良くも悪くも同じようなことが3回起こるとパターン化され、感情・思考・行動に影響し、自らの人生脚本を作っていくと云われています。とくに悪いイメージはより強く潜在意識に働き掛けると云われています。
例えば両親の喧嘩の原因が自分だという思いが子供心にパターン化されますと、いつしか自分なんかいなくなればいいんだとか、自分は誰からも好かれていないんだ、という自分を作り上げます。本当はそうではないのに、一度潜在意識に擦り込まれたネガティヴパターンは運命そのものへ影響します。

恐いですね。だからこそ、私たちは既成概念を捨てて、素の自分を取り戻すことに意味があるのです。損か得かで動くことをなるべく少なくし、ウキウキ、ワクワク“自分”の心の欲する方向へ自然に一歩を踏み出してみる。するとある時、これまでは目に入らなかったステージの幕が突然上がり、そこにはチャンスの女神に手を携えられた自分の、いろんな可能性に満ち溢れ、人生を活き活きと生きている姿が映し出されているはずです。

チャンスは無限にあります。何度も訪れます。ところが、自我や既成概念に雁字搦めになって気付けないとしたら、一度限りの人生で、余りにも惜しいとは思いませんか。

2002年9月