2008年11月7日金曜日

許すという想い

 もし 現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を人口100人の村に縮小するとしたらどうなるでしょう。()内の数値は無視して読む。

その村には、57(60)人のアジア人、21(12)人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人(15人は西半球/9人の南アメリカ人、5人の北アメリカ人、1人のオセアニア人)、8(13)人のアフリカ人がいます。
52(50)人が女性で、48(50)人が男性です。70(80)人が有色人種で、30(20)人が白人。70(67)人がキリスト教徒以外の人たちで、30(33)人がキリスト教徒。89人が異性愛者で、11人が同性愛者。
 6(20)人が全世界の富の59(89)%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。
 80(25)人は標準以下の居住環境(住宅)に住み、70(17)人が文字が読めない。50(13)人は栄養失調(栄養不良)で苦しみ、1人が瀕死の状態にあり(1人が1年以内に死に)、1人は今、生まれようとしている(2人が1年以内に生まれる)。
  1(2)人は大学の教育を受け、そしてたった1(4)人がコンピューターを所有している。
 もしこのように縮小された全体図から私たちの世界を見るなら、相手をあるがままに受け容れること、自分と違う人を理解すること、そしてそういう事実を知るための教育が、いかに必要かは火を見るより明らかです。(ここまでが前段)
 また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。もしあなたが今朝、目覚めた時、病気でなく健康だと感じることができたなら、あなたは今週生き残ることのできないであろう100万人の人たちより恵まれています。
 もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や、獄門の苦悩、あるいは餓えの悲痛を一度も経験したことがないのなら、世界の5億人の人たちより恵まれています。
 もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことが出来るなら、世界の30億の人たちより恵まれています。
 もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場所があるなら、あなたはこの世界の75パーセントの人々より裕福です。
 もし銀行に預金があり、お財布にもお金があり、家のどこかに小銭の入ったいれ物があるなら、あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの1人です。
 もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なこと。
 もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。
 なぜならあなたのことを思ってこれを伝えている誰かがいて、その上、あなたは全く文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。
 昔の人がこういいました。「わが身から出づるものはいづれわが身に戻り来る」、と。
 お金に執着することなく 喜んで働きましょう。かつて一度も傷ついたことがないかのごとく人を愛しましょう。誰も見ていないかのごとく自由に踊りましょう。誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう
 あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう
 このメッセージを人に伝えてください、そしてその人の一日を照らしてください。

この文章の前段は、2001年10月27日の朝日新聞の「天声人語」に載った記事です。「このメールはJTBサンフランシスコ支店経由で日本のJTBに送られてきたものを紹介していただいた。その村にいる2人の日本人としても他の98人のことに無関心ではいられない」とありますが、この文章は、実はイワクつきでして、アメリカでチェーンメールとして流れたものですが、その作者は実のところ定かではないようです。

私が今回なぜこの文章をとりあげたかと申しますと、私が参加しているマクロビオテックのMLで流れ、今月私が取り上げようとしていたテーマが象徴的に表現されていたからです。また、この文章を批判的に考察し、文中の数値の根拠を公的資料に基づいて訂正している記述も発見できましたので、その双方の観点で興味を持ち、当用しました。

()の中の数値がオフィシャルな統計資料に基づいて訂正されたものです。数値の正確さを求めることは非常に大切ですが、この文章の場合、それ以上に人間としての生きる姿勢、在り方について読者の心に迫ってくるものがあります。

世界はいままたキナ臭い方向へ向かいつつあります。先の文章にデータ的な間違いがあったにせよ、今という時代に流され、多くの人に感動を与えたこの文章には象徴的な意味合いがあるような気がします。どうぞ、みなさんそれぞれがお読みになって感じてください。それ以上に私が申し付け加えることはありません。
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思いの種を蒔いて行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔いて人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を刈り取る。⋯という格言をかつて目にしたことがあります。この格言をよくよく見てみると、実は表に現われていない大事なメッセージがあることに気づきます。

ここにある「思い」とは、善としての行動、明るく前向きな行動を意図しており、その思いを行動に移して習慣にし、そこから人格を高めてよい人生を勝ちえよう、というロジックが見えます。

しかし、“表あるものに裏あり、表大なれば裏もまた大なり”なのです。忘れてならないことは、善としての思いの逆、つまり「悪い思い」というのも、またひとつの確かな思いであり、結果的に同じ原理が働くわけです。

誰かを恨んだりねた嫉んだり、不幸を望んだりしたとします。するとどうなるでしょうか。その思いは、意図するしないに関わらず、なんらかの嫌がらせや、相手に不利益を与える言動や行動につながります。それが習慣になると、確実に心はすさ荒み、他人からの信頼や人望も少しずつなくなります。そんな人が仮にいくら経済的に裕福であったとしても、豊かな人生とはとても云えませんね。

冒頭の文中に「わが身から出づるものはいづれわが身に戻り来る」という表現がありました。この意味合いに心を震わせた方は、断言しますが、明日からの人間関係が大きく変化(好転)します。

貴方をおとし貶めようとする人、すべて「その人の身から出づるものはいづれその人の身に戻り来る」のです。

そう信じると、あなたは相手をただ静かに見つめ、そして「許す」という思いを抱くことができるはずです。

しかしながら、なぜ許せるの! 私には許すなんてとても簡単にはできない、という声をよく耳にします。

しかし、法則を理解できれば、決して難しいことではありまん。私たちはみな我欲に振り回されて生きています。落ち度のない人など一人もいません。

私たちはこれまで、そんな自分の落ち度(種蒔き)の結果(実)を、最後は全て背負う(刈り取り)ことになったはずです。逆もまた然りで⋯。

つまり、私たちは誰か他人と対峙しているのではなく、常に自らの宇宙意識と向き合っているのです。相手に対する思いは、やがて自らに同等に返ることになります。昔から、相手恨めば穴二つと云いますが、相手褒めれば穴二つでもあるわけで、この法則には、いい結果であれ、悪い結果であれ、何人にも拒否権は一切ありません。まさにそれが宇宙の法則たる所以です。

私たちの未来は未定、運命も定かではありません。明日の出来事は私たちの潜在意識の中にあります。私たちの日常的な心の在り方が運命を左右するのです。

人はどんな種を蒔こうと、その蒔いたものを刈り取るという事実。許すという思いの種を蒔くと、どんな結果を刈り取ることになるか、既にあなたは分かっているはずです。それはもちろん、幸せの実、健康の実以外の何ものでもありません。

真の勝者

森羅万象すべからく、つくられたものには設計図がある、というのが私の考え方です。だから、壊れた時計を時計職人は直すことができるのです。こうした考え方は、私たち人間にも同様に適用できます。

私たち人間をつくったのが誰か、残念ながらその正体を知る者はこの世に一人も存在しません。しかし、私たちは現に生存しており、その意味するところは、創造した知性もまた確かに“ある”ということです。

つまり、その知性は、人間の仕組みをイメージし、設計したのです。であれば当然のごとく壊れた、言い換えるならば、病気になった私たちを治(直)す方法も解っていることになります。そして、その設計図は、神性を備えた人間の「潜在意識」に記録されたのだと、諸説と経験から私は推察しています。

つまり、良くも悪くも私たちの潜在意識は私たちの思った通り、命令した通りの現実を提供しているということになります。ならば、恐れを捨てて、普段から、善と健康と富を潜在意識に求めればいい。私たちが潜在意識の力を信じて心から祈るとき、俗にいう奇跡は現実のものとなるのだと、私は考えています。いや、直感的に感じ取っています。

潜在意識という言葉を知らない人は、おそらくここにはいないでしょう。それどころか、とても詳しく知っている方ばかりかもしれません。しかし驚かされることは、知っているだけ、記憶にあるだけ、という人の多さです。つまり、認知はしていても受け容れておらず、常識という色眼鏡が潜在意識に対して「不信」という期待を常に刷込んでしまっているのです。

私が潜在意識に強く関心を持ち始めたのは、今から5年程前のことです。自分の思っていることが不思議と現実になっていくような気がして、客観的に自分の思考と、現実に起こることを見つめ始めました。その結果、言葉では表現しきれない関係性を感じ取り、それ以来意識的に時間と場を定めて想いを選ぶようにしたのです。当初は、まだまだコントロールが下手でしたが、それでも極めて興味深い結果を得ることができました。

世界中の権威ある精神科医や心理学者、はたまた工学系の科学者までが潜在意識は活用できることを公に発表しています。私はそれを実践的、経験則的に語っているに過ぎません。確かにそういうことはあるのだと。

私が長年勤めた会社を辞め、新たな人生を歩き始めた切っ掛けも、当然のごとく、この潜在意識が大きく関わっています。母の死後(14年前)、仏縁を頂いて頻繁に瞑想するようになり、その瞑想が私の潜在意識の扉を開いたのかもしれません。あるときから、子供の頃の夏休みの光景が繰返し脳裏を過るようになりました。また、あるときは、定年を迎えて寂しく肩を落として一人座っている自分の未来の姿が見えたりもしました。そして、脳裏に、こんなことをするために生まれてきたのか、という呼びかけが去来するようになって、その後少しずつ心の整理ができたのです。

いま私は、心苦しいストレスをあまり感じていません。当然のごとく、確固とした収入や、肩書きなどはすべて失いました。しかし、勇気をもってコップの水を捨てたとき、確かに新しい水が注がれたのです。

いま、ご縁をいただき足法に取り組み、多くの人々と接しながら、そこはかとない幸せを感じています。その理由は、ただ単に当塾に参加される受講者数が増えたからではなく、好きな足法を実践できる場所を得、そして、同じ気持ちを共有できる人々と立場を超えて楽しい時間を過ごせるからです。

私たちはみな幸せを求めて人生を彷徨います。しかし、常にどこか幸せではない自分に不満を持って生きています。そんな方に私は云いたいのです。あなたが真に幸せになりたいのなら、無邪気にワクワクすることは何かを見つけたほうがいいと。そして、そのワクワクを仕事、趣味の隔てなく思いっきりやることです。そんなあなたを潜在意識が感知したとき、あなたの人生が幸せにならないはずはないのです。そして、その姿こそが、私には人生の「真の勝者」に見えるのです。

付け加えますが、よく末期の癌が治ったという人がいますが、こういう人は私から見て潜在意識の扉が開いた人だと思います。あらゆる概念から解放されて達観に至ったとき、本来消えるはずのない癌細胞すら消えてしまうのだと、これもまた直感的に思えてならないのです。