2009年8月17日月曜日

健康法の幽霊

ここにひとつの健康法をご紹介します。まずはよく読んでみてください。

脳卒中で絶対に倒れない法
(鹿児島県国分市養護老人ホーム慶祥の資料より)

血圧は医薬品で簡単に下げることができますが、脳卒中で倒れない方法は、現代医学をもってしても、その予防法は、ないそうです。もし一度この発作にみまわれ、倒れたら軽重の差はあるにしても、再起の望みは断たれ、一生を植物人間として過さなければなれません。大変不幸なことです。しかし、予防の医薬品はないにしてもご安心ください。

『医薬』とはいえませんが、『脳卒中では絶対倒れない飲物』があります。
私はこの飲み物の医薬的成分を知らないし、文献もありませんが、数千人の人が試され、その多くが健在であり、健在であったという実験済みのものです。私はいまこそ勇気と自信をもっておすすめします。試みでなく本気でお飲みください。ただ一回だけの服用で一生を精一杯、生き抜いてくださることをお祈りします。合掌 (この文は、園長さんから頂いた資料のままです)

園長さんのお話
3年前にこの飲み物を、作って、当園50人のお年寄りに飲んで頂きましたが、その後、脳卒中は、1人もありません。信じる、信じないは、ご本人のお気持ちですが、飲んで害になる品物は入っていませんし、善意に解釈できる人はお試しになってはいかがでしょうか。

飲み物の作り方(1人分)
1.鶏卵         一個 卵白だけ使用   よく混ぜる
2.蕗(ふき)の葉の汁  小匙 3杯   
 ふきの葉20g(3〜4枚ぐらい)を細かくきざみ、すり鉢でよくすり潰
 し、それを布に包んで絞るとよい。 注意:つはぶきは不可
3.清酒 (焼酎は不可) 小匙 3杯
4.梅漬         一個 種を除いてすり潰す(土用干しした梅干は不可)

以上4点のものを、必ず番号順に器に入れて、よく混ぜて作る。入れては、よく混ぜ、次のものを、入れては、混ぜること。普通のコップに半分くらいの汁ができます。
この飲み物は、一生に一度、飲むだけでよいので、早急にお試し下さい。
梅漬け:青梅をよく布で拭いて、十分の一量(重さ)の食塩で漬けたもの。

私がこの健康法を入手したのは、今から20年ほど前のことと記憶しています。どこから、誰から入手したのかは残念ながらよく覚えていません。私の母が高血圧であったために、どこかで手に入れたのだと思います。

そもそもこの「絶対に脳卒中で倒れない法」が広まった理由は、今から20年程前に福岡市の小学校校長会で紹介されたのが切っ掛けらしく、誰かが参考文書の内容を要約したということで、鹿児島県国分市の養護老人ホーム慶祥園で実施していて、国分市や隼人方面で大変な評判になっており、慶祥園では大勢の人がこれを用い、そのことごとくが脳卒中に患わなかったという結果が得られた、という内容で構成されています。

実際に、この健康法を有名な鍼灸学校や個人の鍼灸師が紹介しています。そこで、私は直接ここにある慶祥園に電話取材してみました。あいにく園長さんは外出中とのことで、寮母の仮屋園(かやぞの)さんが取材に応じてくれました。私の質問に対して、当初やや戸惑われていた仮屋園さんから興味深いお話をお聞きしましたのでここにご紹介します。

慶祥園には一年を通じて私と同じような問い合わせの電話が今でも数多く寄せられるとのことで、遠くは海外からもあるそうです。聞いて驚いたのは、この慶祥園の園長さんがこの健康法を発表したという事実はないらしく、かつてこの園に住むある方が個人的にこの方法を実行されたようだという話を聞いたことがあるとのことでした。

実際、方法論そのものにはカラダに悪い要素もないらしく、そのまま何の問題もなく今日を迎えたということです。しかし、仮屋園さん曰く、当園はこの件に関してまったく関与しておらず、責任もとれないということで、私がこの取材の内容を私の教室で公表したいという申し出に対しては逆に好意的に受け止めていただけました。以前も、また現在も、慶祥園でこの方法を試されている方は“仮屋園さんの知るかぎり”誰もいないということです。

世の中が健康ブームと言われて久しくなりますが、このような話は決して珍しいことではありません。私も足法という健康法の指導に従事する者の端くれとして、いろいろな健康法が世に広まること自体はとてもよいことだと思いますが、根拠と実態の伴わない幽霊話が横行することにはある種の不安と戸惑いを禁じえません。

私は、ここにある健康法を否定しているのではありません。ひょっとしたら大変素晴らしいものかもしれないのです。それだけに私は是非とも実績や経緯などを詳しく知りたかったのです。何れにしても、情報が錯綜する時代に生きる私たちは、自らの感じる力を最大限に活用して事に臨む必要があると強く実感しています。すべての責任の所在は、最終的には個人にあるということを決して忘れてはならないでしょう。

(2003年2月)

地上の星

昨年の紅白で中島みゆきの歌った「地上の星」が、発売から3年を経てオリコンヒットチャートの第一位になったことをニュースで知った。私はこの楽曲をNHKの“プロジェクトX”という番組で初めて聴いた。中島みゆきの歌とは「時代」から始まってもう20年以上の付き合いがあるが、彼女の詞と曲は私の人生の折々に心に揺さぶりをもたらした。改めて「地上の星」の詞を書きだしてみたい。

 風の中のすばる
 砂の中の銀河
 みんな何処へ行った 
 見送られることもなく
 草原のペガサス
 街角のビーナス
 みんな何処へ行った
 見守られることもなく
 地上にある星は誰も覚えていない
 人は空ばかり見てる
 つばめよ高い空から
 教えてよ地上の星を
 つばめよ地上の星は
 今何処にあるのだろぅ

 崖の上のジュピター
 水底のシリウス
 みんな何処へ行った
 見守られることもなく
 名だたるものを追って
 輝くものを追って
 人は氷ばかり掴む

この歌を聞きながら、私は今という時代を改めて見回してみた。ニュースは連日のように凶悪犯罪や若者の暴力、公僕たちの不正や芸能スキャンダルを映し出す。それが時代柄、まるで常識であるかのような錯覚を見る者に与える。そして、ノーベル賞に選ばれた一人の無名なサラリーマンを、まるでアイドル並に追い掛け回し、無理矢理に英雄へと祭り上げていく。

一人の犯罪者をマスコミが一方的な視点で断罪するのと同じ手法で、一人のヒーローが仕立て上げられていく様に、そして、その報道にまるで我が事のように振り回される庶民の姿に、現代人の心の貧しさを感じずにはいられない。

私たちは今、心の在り方を見失ってしまったのだろうか。人間とは、醜くもあり美しくもある。弱くもあり強くもある。その証拠は私たちの身の回りに散在しているではないか。私たち人間は、間違っても画一的ではないのだ。

ところが、小学校に入ると同時にまるでクローン的な教育システムに子供たちを押し込め、大人たちが決めた“よい子”の価値観ですべてを評価しようとする。

そしてその子供たちが成長すると、その多くは世の常識から外れることを恐れ、人間にとって最も大切な創造性の欠片もない、かつての大人たちと同じ轍を踏み続ける。そんな大人たちが繰返し新たな社会人に対して、独創性や個性を求めるという茶番を私たちはいったいあと何年見続けることになるのだろうか。

渋谷でたむろっているヤンキーにも、新宿の浮浪者にも、組織の片隅に追いやられたオヤジにも、そして夫や子供たちのためだけに生きている普通の主婦の中にも、天才や哲学者、或いは傑物はいるのだ。

木下藤吉郎が現代に生きていたら、定年離婚の憂き目に遭うような、しょぼくれた男で終わっていたかもしれない。アインシュタインが今の日本に生まれていたら、おそらくいの一番に落ちこぼれの烙印を押されただろう。

これは私の勝手な想像であるが、あの田中さんが、もしもノーベル賞を受賞しなかったら、島津製作所は彼をいち役員にもしなかったのではないか。そんな思いを抱いてしまうほど、彼の受賞に対する会社側の対応は、すべてに渡って後手後手に映って見えた。

W・ブレイクの詩に次のようなものがある。

 一粒の砂に世界を 野の一輪の花に天を見たいのなら
 掌に無限を 一瞬に永遠をつかみなさい

この意味を私ふうに解釈すると、私たちが見たいときには目を閉じ、聞きたいときには耳を塞いでこそ、真の姿が現前するということ。現象に振り回されて真理を見失ってはならない。情報はひとつの価値観であって決して真実そのものではない。心の目、心の耳を通さなければ“地上の星”を発見することはなかなか難しい。

プロジェクトXを見て涙する老若男女は少なくないと聞く。もしそれが単なる現象ではなく人間性回復の兆しであるとすれば、この国の将来も捨てたものではないと思うのだが。

(2003年1月)

五右衛門君からの学び

2003年も当然の如く、明ければ過ぎゆく習わし通り18日を数えます。みなさんは、どのようなスタートを切られたことでしょうか。

私はと云いますと、1月6日に義父が亡くなりまして、私の家内が男なしの長女ということもあり、その助っ人に数日間バタバタとした日々を過ごしました。

8日に谷中の常在寺という日蓮宗のお寺で葬儀を行いましたが、そのときのエピソードをひとつ。と申しましても、葬儀のことではありません。家内の妹の長男(中学受験を目前に控えた)のことなのです。

この少年、常日頃から非常に元気が良いと云えば体裁はいいのですが、実は母親の言うことを聞かず、いつも暴れ放題にとっ散らかっているような子なのです。

この日も予想通り、母親や祖母、はたまた私の家内の言いつけなどどこ吹く風、シンと静まり返った寺に到着するなり、弟・妹にちょっかいを出し、その行為はどんどんエスカレートし、やがて襖をも破くかの大音響が境内に鳴り響いたのを聞いてついに母親は堪忍袋の緒が切れたのでしょう。スッと私たちの前から消えました。

やがて日蓮をも脅かすかの悪魔の宴は鳴りを潜めました。5分、そして10分、弟と妹はニコニコ顔で行き来するのですが、いっこうに主役の姿は見えない。

そこで私は厠に立つ振りをして隣の広間を覗いてみますと、まるで牢獄にぶち込まれた石川五右衛門のごとく胡座をかいたまま、青白い顏で俯いています。その横顔にかつての私自身を見る思いが⋯。

この話に必要な補足説明を加えますが、彼の弟は大変な秀才で、神戸では有名なH学園という進学塾のトップグループにいます。嘗てはこの五右衛門君もそこで将来(?)の地盤を固めるべく勉学に勤しんでいたのですが、聞くところによると日を追うごとに成績は落ち、やがて在籍するのも難しくなり、いまでは家庭教師をつけて中学進学を目指しているとのことであります。
もちろん義妹夫婦の気持ちも昨今の公立中学の荒れようを思えば分からぬではありません。親心でありましょう。我が腹を痛めて生んだ子であります。誰彼へだてなくみな可愛いに違いないのですが、可愛さ余ってついつい厳しくなるということは、どこの家庭でもよくあることです。
そんなとき、たまたま他の兄弟姉妹たちが良くできたりすると、どうしても一人浮き上がってしまったりするものです。この五右衛門君も、私の目から見てどうもそんな感じに映ったのであります。

そこで話を元に戻しますが、シュン太郎を決め込んでいる彼に話しかけてみました。
「どうした、元気がないじゃないか」
「・・・」
チラッと私を見たまま無視。「そうきたか」というわけで、この手のガキ、元へ、子供を得意とする私は作戦を変えまして、彼の好きな野球の話に振ってみたのであります。
「野球やってるか?」
おやっ、という顏で私を見上げた彼は少し考えてから「うん」と答えました。
(しめしめ⋯)「おまえどこ守ってんだ」
「⋯外野」
「打順は何番なんだよ」
「⋯三番」
「へーっ、スラッガーなんだ」
この言葉に心をくすぐられたようでありまして、所詮はガキ(元へ)子供、褒められるとすぐに目の色が変わるものであります。
「おまえどこのファンなんだ」
「べつにない」
「ノリ(近鉄の4番)のファンじゃなかったのか」
「うん、まあそうだけど⋯」
などとしばし野球談義を釣りエサに彼の體を観察しておりました。感じるものがありまして、この五右衛門君に「ちょっとなァ、おまえそこに立ってみろ」といって目の前に正対させまして、肩から腰、そして脚と注意深く観察してみました。

思った通り、小学6年生に相応しくない歪みがあります。そこで彼を伏臥、仰臥にしながら触れてみたのです。普通ならキァアキァア言ってくすぐったがるものなのですが、私が触れても静かにしています。

「くすぐったくないか?」と聞いても「うん」と答えます。
私は彼の體にくまなく触れてみて驚きました。脊柱の彎曲、骨盤の歪み、そして恐ろしいまでの筋肉硬直。脊柱の左右の筋肉がアンバランスに硬直し、また股関節も弾力を失っております。
ガッセキをさせて前屈させようとしても、この歳にしては考えられないほど左の股関節が硬くて開きません。本人も痛がります。

そこで約30分間、股関節と背中の筋肉を弛める施術を行いました。この歳の子は基本的に肉体的なポテンシャルが高いということもあり、弛むのも早いものがあります。
当初は「痛い、痛い」と云っていたのに、全体が弛むに連れて、大きく前屈もできるようになりました。

「おい、すごいじゃないか」と言いますと、
おもしろいもので、彼の表情が前にも益して明るくなります。この五右衛門君は、人一倍感受性の強い子なのでしょう。そのことが彼の體に触れてよく分かりました。このようなタイプの子供は、親のちょっとした態度や言動を敏感に受取り、悪くするとそれが大きなストレスになってしまうのです。しかも、それがトラウマにまで至ってしまうことも決して少なくありません。
彼と弟は一才違いで、弟は出産時に肩関節を脱臼し、しばらく大変な時期が続いたこともあって、その後も母親の目がどうしても弟の方へ向きがちであったのでしょう。五右衛門君からすると、母親を弟にとられた気分になったことは容易に想像できます。

そうした日々の積み重ねが今日の彼の性格形成に大きく影響していることは、私のこれまでの学びの中で理解できることなのです。

しかしながら、彼は母親が好きで、日頃から将来は僕がこうしてお母さんを幸せにしてあげるんだ、などと可愛いことも申している様子などから察しますと、やはり彼は母親とのスキンシップを心の底で渇望しているに違いありません。

私がお寺で彼とそんな交流があったことを具体的に知らなかった周りの人たちですが、帰宅してから妻が「敏くんの顔つきがなんか変わった」と言っていたことを考えますと、これは子供に限らず、人間はみな誰かに温かく見つめられ、ときには触れ合うことがいかに大切であるかを思い知らされます。

葬儀の翌日、神戸に帰る彼を訪れ、私はある品物をプレゼントしました。それは私が今から20年近く前に手に入れたバット。現巨人軍監督の原氏が当時使用していたものと同じモデルの硬式バットです。このバットには「シリアルNo.002」グリップの裏には「G8」と刻印されたもので、今では絶対といっていいほど手に入らない貴重品です。幸い私はこのバットを殆ど使わずに保管しており、極めて良好な状態にあったものです。

彼に手渡すときに、このバットを心から欲しいと思うかどうか、そして、そうでなければ渡さないよ、と言いました。すると彼は「すごく欲しい」と言いました。そこで私はひとつだけ約束して欲しいと彼に伝えました。それは、「かならず毎日100スイングすること。そしてバットを大切に扱うこと」。彼は珍しくキリッとした顏で頷き嬉しそうにバットを握りしめました。
その後、私が嘗て教えられた通りに彼にバットスイングを教えたのですが、無心にバットを振る彼の表情は、寺の広間でひとりシュン太郎を決め込んでいたときとは別人のようでした。

私も子供の頃は落ち着きがなく、よくできる姉に反発して親をいつも困らせていたものです。小学校3年生の通信簿には「万事不熱心」などという親が卒倒するような評価を頂戴したりして、それこそできの悪いガキの見本みたいなものだったのです。私の姉は「あの時のあなたを見ていて、将来とてもまともな人間になるとは思わなかった」と今でも申します。この五右衛門君などは当時の私なんかと比較しますと、まだまだ良い子の許容範囲に十分はいるのであります。

そんな私が何がキッカケで娑婆で暮らせるような人間になったかはまた別の機会があればお話するとして、人間は抱きしめられた数だけ、見つめられた数だけ、活き活きとするものであります。人を見返してやりたいという思いも、結局は注目してほしいからであり、認めてもらいたいからであります。

たった二日の間に、五右衛門君の表情はかくも変わりました。相手が無邪気な子供であったこともその要因のひとつではありますが、私たち人間はみな、すべからくその素質を有していることは明らかなのです。

昨今の政治家や官僚を筆頭とした数々の不祥事を見るにつけ、その成長の過程がいかなるものであったかが容易に想像できます。

大人になると親のような眼差しで導いてくれる人は少なくなります。しかし、自らの成長、自己改革に対する興味と発心があれば、機会は自ずと現われるものであります。その一助・一機会に足法自然塾がなれましたら、そこはかとなく幸せであります。

私の2003年は、この五右衛門君からの学びで始まりました。感謝です。

(2003年1月)