2009年8月17日月曜日

地上の星

昨年の紅白で中島みゆきの歌った「地上の星」が、発売から3年を経てオリコンヒットチャートの第一位になったことをニュースで知った。私はこの楽曲をNHKの“プロジェクトX”という番組で初めて聴いた。中島みゆきの歌とは「時代」から始まってもう20年以上の付き合いがあるが、彼女の詞と曲は私の人生の折々に心に揺さぶりをもたらした。改めて「地上の星」の詞を書きだしてみたい。

 風の中のすばる
 砂の中の銀河
 みんな何処へ行った 
 見送られることもなく
 草原のペガサス
 街角のビーナス
 みんな何処へ行った
 見守られることもなく
 地上にある星は誰も覚えていない
 人は空ばかり見てる
 つばめよ高い空から
 教えてよ地上の星を
 つばめよ地上の星は
 今何処にあるのだろぅ

 崖の上のジュピター
 水底のシリウス
 みんな何処へ行った
 見守られることもなく
 名だたるものを追って
 輝くものを追って
 人は氷ばかり掴む

この歌を聞きながら、私は今という時代を改めて見回してみた。ニュースは連日のように凶悪犯罪や若者の暴力、公僕たちの不正や芸能スキャンダルを映し出す。それが時代柄、まるで常識であるかのような錯覚を見る者に与える。そして、ノーベル賞に選ばれた一人の無名なサラリーマンを、まるでアイドル並に追い掛け回し、無理矢理に英雄へと祭り上げていく。

一人の犯罪者をマスコミが一方的な視点で断罪するのと同じ手法で、一人のヒーローが仕立て上げられていく様に、そして、その報道にまるで我が事のように振り回される庶民の姿に、現代人の心の貧しさを感じずにはいられない。

私たちは今、心の在り方を見失ってしまったのだろうか。人間とは、醜くもあり美しくもある。弱くもあり強くもある。その証拠は私たちの身の回りに散在しているではないか。私たち人間は、間違っても画一的ではないのだ。

ところが、小学校に入ると同時にまるでクローン的な教育システムに子供たちを押し込め、大人たちが決めた“よい子”の価値観ですべてを評価しようとする。

そしてその子供たちが成長すると、その多くは世の常識から外れることを恐れ、人間にとって最も大切な創造性の欠片もない、かつての大人たちと同じ轍を踏み続ける。そんな大人たちが繰返し新たな社会人に対して、独創性や個性を求めるという茶番を私たちはいったいあと何年見続けることになるのだろうか。

渋谷でたむろっているヤンキーにも、新宿の浮浪者にも、組織の片隅に追いやられたオヤジにも、そして夫や子供たちのためだけに生きている普通の主婦の中にも、天才や哲学者、或いは傑物はいるのだ。

木下藤吉郎が現代に生きていたら、定年離婚の憂き目に遭うような、しょぼくれた男で終わっていたかもしれない。アインシュタインが今の日本に生まれていたら、おそらくいの一番に落ちこぼれの烙印を押されただろう。

これは私の勝手な想像であるが、あの田中さんが、もしもノーベル賞を受賞しなかったら、島津製作所は彼をいち役員にもしなかったのではないか。そんな思いを抱いてしまうほど、彼の受賞に対する会社側の対応は、すべてに渡って後手後手に映って見えた。

W・ブレイクの詩に次のようなものがある。

 一粒の砂に世界を 野の一輪の花に天を見たいのなら
 掌に無限を 一瞬に永遠をつかみなさい

この意味を私ふうに解釈すると、私たちが見たいときには目を閉じ、聞きたいときには耳を塞いでこそ、真の姿が現前するということ。現象に振り回されて真理を見失ってはならない。情報はひとつの価値観であって決して真実そのものではない。心の目、心の耳を通さなければ“地上の星”を発見することはなかなか難しい。

プロジェクトXを見て涙する老若男女は少なくないと聞く。もしそれが単なる現象ではなく人間性回復の兆しであるとすれば、この国の将来も捨てたものではないと思うのだが。

(2003年1月)

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