2009年7月26日日曜日

チャンスの女神

みなさんよくご存知の表現に「チャンスの女神に後ろ髪はない」というのがあります。チャンスって滅多に来ないのだから、目の前に来たらしっかり掴まえないと、通り過ぎた後に思い直して掴もうとしても、掴む後ろ髪はないと云うものですが、果たしてこれは本当でしょうか。

しかもこの表現、云う側は解りやすいと思って用いるのでしょうが、よくよく考えてみると、実は解ったようで解らない表現です。さらに脅迫的で、失敗は許されないぞッ、という恐さも感じます。にも関わらず、意外と解った気でいる人が多くはないでしょうか。

チャンスって本当に一度逃がしてしまったらもう二度と訪れないものなのでしょうか? これまでの人生で、あなたはそうでしたか? もしもこの人と結婚していなかったら⋯、あの時あの人の云うことを聞いていたら⋯、あの時あれをしていたら⋯etc、こんな苦労は、失敗はしなくて済んだかもしれない、と考えれば切りがないわけですが、私が思うに、その後もきっと何度も同じようなチャンスはあったはずなのです。と言うより、私たちはチャンスの中に埋まって生きていると思えてなりません。ただ、そのチャンスに気付かないだけではないかと。

白隠禅師の座禅和讃に「⋯衆生近きを知らずして、遠くを求むるはかなさよ。例えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず⋯」という一節があります。

私たちそのものが既に仏であるのに、そのことには誰も気が付かない。それはまるで、水の中にいて喉が渇いたと文句を言ったり、裕福な家に生まれたのに家を飛び出し貧乏に喘ぐ姿に等しい、という意味です。

常々、私はこの和讃を読みながら、いろんなチャンスの中に埋もれているのに、強く手を伸ばせば届くのに、いつも自分は不運だとか、ちっとも恵まれないとか、悪いことばかり起こるとか、そんな愚痴や文句ばかり言っている私たちの姿そのものを見る思いがしてならないのです。
私は近頃、誰彼なしに云うこと⋯。それは、既成概念を取っ払って、素の自分で感じ、その感じを通して世の中を見渡してみようと。世間体や常識と云ったものすべてを一度頭の中から追い出して、そして改めて自分の周りを見渡してみようと。

そんなこと難しくてできない、という人が大勢いますが、その難しいということもまた既成概念なんですね。

そこで私が実践している方法は、“自分”が何をしたら楽しいか、“自分”はどんなことにウキウキ・ワクワクするか、今現在、自分を取り巻くすべての条件を無視して心の赴くままに考えることです。ああだから出来ない、こうだから無理、そんなことは取り敢ず横に置いておいて、どんどんイメージを膨らませてみるのです。子供の頃の夢や希望に日々満ち溢れていたあの時の自分に帰って、あれこれ好きに思いを巡らします。

人間は、良くも悪くも同じようなことが3回起こるとパターン化され、感情・思考・行動に影響し、自らの人生脚本を作っていくと云われています。とくに悪いイメージはより強く潜在意識に働き掛けると云われています。
例えば両親の喧嘩の原因が自分だという思いが子供心にパターン化されますと、いつしか自分なんかいなくなればいいんだとか、自分は誰からも好かれていないんだ、という自分を作り上げます。本当はそうではないのに、一度潜在意識に擦り込まれたネガティヴパターンは運命そのものへ影響します。

恐いですね。だからこそ、私たちは既成概念を捨てて、素の自分を取り戻すことに意味があるのです。損か得かで動くことをなるべく少なくし、ウキウキ、ワクワク“自分”の心の欲する方向へ自然に一歩を踏み出してみる。するとある時、これまでは目に入らなかったステージの幕が突然上がり、そこにはチャンスの女神に手を携えられた自分の、いろんな可能性に満ち溢れ、人生を活き活きと生きている姿が映し出されているはずです。

チャンスは無限にあります。何度も訪れます。ところが、自我や既成概念に雁字搦めになって気付けないとしたら、一度限りの人生で、余りにも惜しいとは思いませんか。

2002年9月

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