2009年4月28日火曜日

波と海

人前では強気でいたり、前向きだったり、とても明るく振る舞っているのに、本当は自分に自信がなく、劣等感にさいな苛まれている、そんな人が実に多い。もっと自分を褒めてあげよう、もっと自分を認めてあげようと、頭では解っていても、潜在意識下では自分に自信が持てず、勝手に自らの限界を決めてしまっている。

人前とは裏腹に、一人になるといつも何かを怖れている。お金がない、借金がある、自分の家がない、会社での地位が低い、リストラされた、学歴がない、信じていた人に裏切られた、誰かにいじ苛められている、重い病気を患っている、ハンディキャップをもって生まれた、差別されている、離婚した、嫁姑とうまくいかない、子供が反抗している、一人暮らしで不安⋯、等々から自信や生きる気力、希望を失ってしまうのだ。

しかし、いま置かれている自分の立場は、無視しようが、嘆こうが、落ち込もうが、怒ろうが、誰かのせいにしようが、決してなくならないし、そのままでは何も変わらない。ずっといまの自分に付いて回る。そして「ずっと付いて回るのか」と考えてまた落ち込んでしまう。人間は本当に落ち込んだり、心配することが好きな生き物である。

そこで皆さんに試みていただきたいことがある。あなたがこれまで生きてきたなかで「損した」と考えている「自分の持ち物」の項目をすべて正直に書き出してみてほしい。例えば「仕事がない、学歴がない、背が低い、美男美女じゃない、女(男)であること、両親(夫婦)が離婚したこと、貧困な家庭に育ったこと、ハンディキャップをもって生まれたこと⋯etc.」。

その上で、今度は逆にそこから得たものはないかをよーく考えほしい。リストラされて得たものは、学歴がなくて得たものは、女に生まれて得たものは、離婚して得たものは、身障者に生まれて得たものは⋯etc。書き出していただきたい。必ずあるはずだ。

そしてそのことに気付くと、人間っていかに自分に好都合に(一方的な視点で)物事を見ているかが解るだろう。

これら「苦や不自由」から得た叡知は、私たちにとって、実は計り知れないエネルギーに変わっている。健常者として生まれていたら、果たして現在の乙武洋匡(おとたけ ひろただ)氏はあったであろうか。世界には、困難やハンディキャップがあったからこそ豊に人生を送っている人たちがたくさんいる。

仙道家の島田明徳氏は彼の著書「病の意味」の中で次のように記している。『現実ここにいる、つまり、波そのものである皆さんには、自分が“海の現われ”であることが解りません。自分(波)の意識では海(無自覚)を捉えきれないために、波(自覚)だけで存在していると思っているのです。まずなによりも波(自覚)が波だけでは存在できないということを正しく理解して、海(無自覚な働き)が自分を表現させていること、すなわち「法則」があって自分はこの世にいる、ということを正しく理解しなければいけません。(中略)「波」が「海」を自覚するためには、まず波を静めることが必要です。「私は波です」といつも波立てていたのでは、自分が「海」であることに永遠に気付けないでしょう』と。

この論理に当てはめて考えるなら、乙武氏は自分の存在を海の側から感じていたにちがいない。そして、海である自分を自覚することで荒れ狂う波(不自由な自分)を静め、その結果現在の環境を手にしたのだろう。

私たちの目の前にある「苦や不自由」は、決して無意味な「苦や不自由」ではないのだ。その向う側には「楽」につながる叡知が秘められている。「苦」はひとつの現象であって全体ではない。

以前、NY大学のリハビリテーション研究室の壁に書かれた読み人知らずの「祈り」という詩を紹介したことがあった。その詩はこう締括られている。「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私は最も豊かに祝福されたのだ」と。

私は退社以来、物理的に損か得かで生きる部分を極力少なくし、楽しい、気持ちがいいと感じる方向に向かって生きよう、すべからく光のある方へ進もう、そして、捨てることを怖れまいと念じながら日々を暮らしてきた。

そしてそんな自分の想いを通して最近、「他人の評価する自分の幻影に翻弄されにくくなった自分」に出逢った。私のような凡人でも、強く念じつづければ、宇宙の法理は確かに“豊かな祝福”を与えてくれるように感じるのだ。

2002年2月

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