なせば成る、なさねば成らぬ何事も、ナセルはアラブの大統領、なんて古い漫談のネタがありましたが、この歌を正しく表記しますと次のようになります。『なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の、なさぬなりけり』。
これは江戸時代に作られたものと言われており、その後、今日までずっと謳い継がれてきたしんげん箴言(戒め、教訓の意)です。
この歌が江戸時代に作られたと知って私が改めて思ったことは、太古より人間の在り方はまったく変わらないということです。
むしろ昔の方が、私たち人間は、より本質的な考え方や生き方をしていたからこそ、このような歌が生まれたのだろうと思うのです。以前、皆さんにご紹介した、鴨長明の方丈記もまた然りですね。
この歌のキーワードは「なす」。しかし、「なす」という行為の前に私たちは「思い」をもちます。その思いがあって初めて具体的な行為に表すことができるのです。
これも以前に私が皆さんにお伝えしたことですが、『思いの種を蒔いて行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔いて人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を借りとる』という西洋の格言。やはりここにも「思い」と行動の関係が謳われています。
私たちの行動はすべて「思い」の上に成り立っていることが分かります。ここで記憶術のオーソリティ、七田まこと眞氏が彼の研究を通して次のような興味深い発言をされていますのでご紹介します。
「右能の開き方はいろいろありますが、深い学習回路を開く方法にしかんあんしょう只管暗唱があります。1日に何十回となく声を出して暗唱を続けると開けるという頭の秘密があるのです。明治〜大正の頃、千葉県に山崎べんね弁栄という僧侶がいました。彼は本をパラパラと二三度めくっただけで内容をすべて理解し記憶した人でした。彼が21〜2才の頃、朝から晩まで念仏三昧に明け暮れました。そこから、人知れぬ不思議な能力が開けたといいます。ある時、長年どうしても治らない難病の婦人から治療法を聞かれたとき、一心に念仏を唱えなさいと教えました。すると、婦人の難病は数日で消えました。念仏には深い学習回路が開くだけでなく、深層の不思議な治癒力を引きだす力もあるのです」
ここで言う念仏とは、ひとつのワードや文章を意味し、それを無心に繰返し唱えること、つまり潜在意識に植え付けることによって、思いが現実のものになってしまうことを実例を挙げて氏は説明しています。
瞑想法のひとつに真言を唱えながら行うものがありますが、これもまた私たちの深層心理に潜む力を引き出そうとする手法なんですね。
私たちが「成す」ために、まず「なさ」なければならないわけですが、そこには「思い」という大切な要素があることを是非再確認してください。「氣が出た」と思って手をかざすと氣はでると私は言いました。しかし、その思いを疑ってかかる人はいつまでも氣はでません。あなたが成したいことは、まさに、なせば成るのですから、そのためにも、日々よい思いを抱いて、実現に向かって「なし」てください。
2002年5月
2009年5月5日火曜日
出逢い
足法を通じて、今日ここに、このように見知らぬ人たちが集っていますが、この広い日本の中で、いや世界の中で、因りによって集ったことは、果たして単なる偶然でしょうか。私はそういう考え方には立っていません。私と皆さんは、大いなる力、偉大なる叡智の導きによって、ここに出逢うことになったのだと思えてならないのです。
私もまた足法をみなさんにご指導させていただくまでに、必然的な出逢いが幾つもあり、その上で今日という日を迎えています。
これは私にとりましても、また皆さんにとりましても好機であるわけでして、この好機を明日からの暮らしの中で活かすことができるか否かが一人ひとりにとっては大変重要な意味をもつことになります。
かねがね私が皆さんに申し上げてきたことは、私は私の役目としてみなさんに足法をご指導しているにすぎないということです。まずなによりも、誰よりも私は足法という整体法が好きで、またその効果を高く評価し、惹かれ、追求・研究・実践している人間なのです。
これまで私は足法を通していろいろな人と出逢ってきましたが、中にはこんなタイプの人がいます。せっかく足法を学ぶ機会を得たにも関わらず、ちっとも楽しそうでなく、逆に不愉快にやっておられる。顏には、こんなことをやって果たしてどれほどの効果があるのやら??? と書いてある。また、ずっと足法を習っておられる方で、こんな症状なんだけれどもちっとも良くならない。何か良い方法はないか。
そうした人々に触れるたびに、人間の猜疑心の深さと依存心の強さに愕然とします。そのような方は、何に相対しても、まるで賭けでもするがごとく、「ほんとうに効くの?」というような姿勢で臨みます。
このような方たちは、多くの場合、あちこちの健康法に首を突っ込んでは効果のなさを相手のせいにし、自分の不幸を嘆き落胆するという共通点を見て取ることができます。
身体が痛い、しんどい、死んでしまいたいほど苦しい、そうした状況にある人は、もう藁をも掴む気持ちで治療者や治療法を追い求めているわけです。その気持ちはよく分かりますが、だからこそ、ひとつひとつの出逢いを疎かにするのではなく、そこには深遠な意味があり、天が与えてくれた好機なのだと受け止め、そして信じて継続していただきたいのです。禅病に罹ったかの名僧・白隠禅師ですら、その克服には年月を要したのです。
焦らず、怖れず、怒らずに、ひと足・ひと足、喜びと希望と祈りを込めて踏み、そして踏まれていただきたいと願っています。そのような姿勢は、間違いなく私たちに宿る自然治癒力を高め、細胞に活力を与えてくれます。健康は自らが勝ち得るもの、という考え方の根本がここにあると私は考えています。
2002年4月
私もまた足法をみなさんにご指導させていただくまでに、必然的な出逢いが幾つもあり、その上で今日という日を迎えています。
これは私にとりましても、また皆さんにとりましても好機であるわけでして、この好機を明日からの暮らしの中で活かすことができるか否かが一人ひとりにとっては大変重要な意味をもつことになります。
かねがね私が皆さんに申し上げてきたことは、私は私の役目としてみなさんに足法をご指導しているにすぎないということです。まずなによりも、誰よりも私は足法という整体法が好きで、またその効果を高く評価し、惹かれ、追求・研究・実践している人間なのです。
これまで私は足法を通していろいろな人と出逢ってきましたが、中にはこんなタイプの人がいます。せっかく足法を学ぶ機会を得たにも関わらず、ちっとも楽しそうでなく、逆に不愉快にやっておられる。顏には、こんなことをやって果たしてどれほどの効果があるのやら??? と書いてある。また、ずっと足法を習っておられる方で、こんな症状なんだけれどもちっとも良くならない。何か良い方法はないか。
そうした人々に触れるたびに、人間の猜疑心の深さと依存心の強さに愕然とします。そのような方は、何に相対しても、まるで賭けでもするがごとく、「ほんとうに効くの?」というような姿勢で臨みます。
このような方たちは、多くの場合、あちこちの健康法に首を突っ込んでは効果のなさを相手のせいにし、自分の不幸を嘆き落胆するという共通点を見て取ることができます。
身体が痛い、しんどい、死んでしまいたいほど苦しい、そうした状況にある人は、もう藁をも掴む気持ちで治療者や治療法を追い求めているわけです。その気持ちはよく分かりますが、だからこそ、ひとつひとつの出逢いを疎かにするのではなく、そこには深遠な意味があり、天が与えてくれた好機なのだと受け止め、そして信じて継続していただきたいのです。禅病に罹ったかの名僧・白隠禅師ですら、その克服には年月を要したのです。
焦らず、怖れず、怒らずに、ひと足・ひと足、喜びと希望と祈りを込めて踏み、そして踏まれていただきたいと願っています。そのような姿勢は、間違いなく私たちに宿る自然治癒力を高め、細胞に活力を与えてくれます。健康は自らが勝ち得るもの、という考え方の根本がここにあると私は考えています。
2002年4月
2009年4月28日火曜日
眼横鼻直
私たちがこの世にオギャーと生まれて以来、必ずついて回るものが人間関係である。親子の関係から友達、学校、社会と、徐々にその枠は広がっていく。
そして、多くの人が多かれ少なかれ人間関係に悩み、苦しみ、自信を失い、会社を辞めたり、離婚したり、最悪の場合は自らの命を断ったりすることもある。
他人との関係を断つために、人里離れた山中で一人で暮らすことも考えられなくはないが、そんな人が増えれば、これまたその山中での人間関係が新たに生まれる。笑ってられない話である。
つまり、生きている限り人間関係だけは私たちが断って断つことのできないもののひとつなのだ。
ならば、むしろ人間関係を逃れるというような難しいことを考えるよりも、今いる中での上手な生き方を求めたほうがより生産的だと私は思う。
いろいろな記述を読んでみても、また、その道の専門家の指南に耳を傾けてみても、さらには昔からの「バカは風邪を引かない」手の比喩のように、神経の太い人、物事に大らかな人、小さなことにクヨクヨしない人は病気に罹りにくいと言われている。
それはなぜか?上記のタイプの人にはある共通点がある。それは、自分に対する悪いイメージを持ちにくいということだ。さてここで、私が皆さんとの対話の中でよく口にする“イメージ”という言葉を思い出していただきたい。このイメージが実は私たちの人生を大きく左右する鍵になっているのだ。
被害妄想気味の人、懐疑心や猜疑心、さらには嫉妬心の強い人は、知らぬ間に不幸な自分の姿をイメージしている。いいことが目の前に起こっていても、その次には悪いことが起こるのではないかと心配している。心配は期待という心理状態でもあるのだ。大らかで楽観的な人は、いま悪いことが起こっていても、いつかは終わる、次はきっといいことがあるはずだ、これも勉強、といった明るい発想になることが多い。そして、その結果どおりの自分を実現しているのが私たちなのだ。
名前は忘れたが、確かある数学者か宇宙物理学者が言った言葉だと記憶している。「人の一生(喜び、悲しみ、幸不幸)を積分すると、みな同じ」 さらに、「夜空を見上げよう。そこには宇宙から見た公平さがある。空の星のむこうで、同じようにこちらを見ているかもしれない。向こうから見れば、今私が見ている星と同じように、私たちの地球を見ているのだ。そうやって眺めれば、いかにこの地上で行われている争いが無益で無意味なものかがわかるだろう」
積分の意味を一言に集約するのは難しいが、とりあえず一定の公式から割り出された面積(=量)としておこう。上記の学者の表現は、この地球に生を受けた私たちが忘れていた摂理を示しているとは思えないだろうか。そしてまた、地球の向こうから私たちと同じような生物が、こちらを見ているかもしれないと考えたら、確かに生命ある“人間”として馬鹿げた戦いや争いなどに時間を割いている場合ではないと思う。
私たちは選んで(選ばれてという見方もできるが)この世に生まれた。そして、いま私たちの目の前で起こっていることは、すべて私たちが成長するための気づきなのだ。そう考えて日々の暮らしに取り組むと、自らの心の在り方に少しは新たな想いが生まれるのではないだろうか。
人間は誰しも手前勝手だ。自ら気づかぬままに自分中心の発想や行動を繰り返してる。そんな自分に気づく機会を与えてくれているのが人間関係なのだ。自分以外の人間の醜い行動は、単にその人のものではなく、そのことを通じて自らの内に潜む醜さを学ぶ手本なのだ。あなたがいまムカツク、腹が立つ、許せない人を思いだしてみてほしい。そしてその人との関係が生まれる以前の自分も同時に思いだしてみよう。その二人の自分を比較したとき、確実に後の自分の方が成長しているとは思わないだろうか。
人間関係の極意は、相手の評価を怖れぬことだと私は考えている。なぜなら、あらゆる摩擦は、必ず人間としての経験値=人間力を向上させてくれるからだ。
大切なことは、この世に生まれた以上、対人関係は自らを向上・成長させるための義務教育の場であると悟り、不幸な人間関係をもプラスに受けとめてそこから学んで初めて次の豊かな人間関係が生まれるのだと達観することだ。それが仏教で云う『眼横鼻直』、つまり、あるがままの自分になれることだと私は思う。
2002年3月
そして、多くの人が多かれ少なかれ人間関係に悩み、苦しみ、自信を失い、会社を辞めたり、離婚したり、最悪の場合は自らの命を断ったりすることもある。
他人との関係を断つために、人里離れた山中で一人で暮らすことも考えられなくはないが、そんな人が増えれば、これまたその山中での人間関係が新たに生まれる。笑ってられない話である。
つまり、生きている限り人間関係だけは私たちが断って断つことのできないもののひとつなのだ。
ならば、むしろ人間関係を逃れるというような難しいことを考えるよりも、今いる中での上手な生き方を求めたほうがより生産的だと私は思う。
いろいろな記述を読んでみても、また、その道の専門家の指南に耳を傾けてみても、さらには昔からの「バカは風邪を引かない」手の比喩のように、神経の太い人、物事に大らかな人、小さなことにクヨクヨしない人は病気に罹りにくいと言われている。
それはなぜか?上記のタイプの人にはある共通点がある。それは、自分に対する悪いイメージを持ちにくいということだ。さてここで、私が皆さんとの対話の中でよく口にする“イメージ”という言葉を思い出していただきたい。このイメージが実は私たちの人生を大きく左右する鍵になっているのだ。
被害妄想気味の人、懐疑心や猜疑心、さらには嫉妬心の強い人は、知らぬ間に不幸な自分の姿をイメージしている。いいことが目の前に起こっていても、その次には悪いことが起こるのではないかと心配している。心配は期待という心理状態でもあるのだ。大らかで楽観的な人は、いま悪いことが起こっていても、いつかは終わる、次はきっといいことがあるはずだ、これも勉強、といった明るい発想になることが多い。そして、その結果どおりの自分を実現しているのが私たちなのだ。
名前は忘れたが、確かある数学者か宇宙物理学者が言った言葉だと記憶している。「人の一生(喜び、悲しみ、幸不幸)を積分すると、みな同じ」 さらに、「夜空を見上げよう。そこには宇宙から見た公平さがある。空の星のむこうで、同じようにこちらを見ているかもしれない。向こうから見れば、今私が見ている星と同じように、私たちの地球を見ているのだ。そうやって眺めれば、いかにこの地上で行われている争いが無益で無意味なものかがわかるだろう」
積分の意味を一言に集約するのは難しいが、とりあえず一定の公式から割り出された面積(=量)としておこう。上記の学者の表現は、この地球に生を受けた私たちが忘れていた摂理を示しているとは思えないだろうか。そしてまた、地球の向こうから私たちと同じような生物が、こちらを見ているかもしれないと考えたら、確かに生命ある“人間”として馬鹿げた戦いや争いなどに時間を割いている場合ではないと思う。
私たちは選んで(選ばれてという見方もできるが)この世に生まれた。そして、いま私たちの目の前で起こっていることは、すべて私たちが成長するための気づきなのだ。そう考えて日々の暮らしに取り組むと、自らの心の在り方に少しは新たな想いが生まれるのではないだろうか。
人間は誰しも手前勝手だ。自ら気づかぬままに自分中心の発想や行動を繰り返してる。そんな自分に気づく機会を与えてくれているのが人間関係なのだ。自分以外の人間の醜い行動は、単にその人のものではなく、そのことを通じて自らの内に潜む醜さを学ぶ手本なのだ。あなたがいまムカツク、腹が立つ、許せない人を思いだしてみてほしい。そしてその人との関係が生まれる以前の自分も同時に思いだしてみよう。その二人の自分を比較したとき、確実に後の自分の方が成長しているとは思わないだろうか。
人間関係の極意は、相手の評価を怖れぬことだと私は考えている。なぜなら、あらゆる摩擦は、必ず人間としての経験値=人間力を向上させてくれるからだ。
大切なことは、この世に生まれた以上、対人関係は自らを向上・成長させるための義務教育の場であると悟り、不幸な人間関係をもプラスに受けとめてそこから学んで初めて次の豊かな人間関係が生まれるのだと達観することだ。それが仏教で云う『眼横鼻直』、つまり、あるがままの自分になれることだと私は思う。
2002年3月
波と海
人前では強気でいたり、前向きだったり、とても明るく振る舞っているのに、本当は自分に自信がなく、劣等感にさいな苛まれている、そんな人が実に多い。もっと自分を褒めてあげよう、もっと自分を認めてあげようと、頭では解っていても、潜在意識下では自分に自信が持てず、勝手に自らの限界を決めてしまっている。
人前とは裏腹に、一人になるといつも何かを怖れている。お金がない、借金がある、自分の家がない、会社での地位が低い、リストラされた、学歴がない、信じていた人に裏切られた、誰かにいじ苛められている、重い病気を患っている、ハンディキャップをもって生まれた、差別されている、離婚した、嫁姑とうまくいかない、子供が反抗している、一人暮らしで不安⋯、等々から自信や生きる気力、希望を失ってしまうのだ。
しかし、いま置かれている自分の立場は、無視しようが、嘆こうが、落ち込もうが、怒ろうが、誰かのせいにしようが、決してなくならないし、そのままでは何も変わらない。ずっといまの自分に付いて回る。そして「ずっと付いて回るのか」と考えてまた落ち込んでしまう。人間は本当に落ち込んだり、心配することが好きな生き物である。
そこで皆さんに試みていただきたいことがある。あなたがこれまで生きてきたなかで「損した」と考えている「自分の持ち物」の項目をすべて正直に書き出してみてほしい。例えば「仕事がない、学歴がない、背が低い、美男美女じゃない、女(男)であること、両親(夫婦)が離婚したこと、貧困な家庭に育ったこと、ハンディキャップをもって生まれたこと⋯etc.」。
その上で、今度は逆にそこから得たものはないかをよーく考えほしい。リストラされて得たものは、学歴がなくて得たものは、女に生まれて得たものは、離婚して得たものは、身障者に生まれて得たものは⋯etc。書き出していただきたい。必ずあるはずだ。
そしてそのことに気付くと、人間っていかに自分に好都合に(一方的な視点で)物事を見ているかが解るだろう。
これら「苦や不自由」から得た叡知は、私たちにとって、実は計り知れないエネルギーに変わっている。健常者として生まれていたら、果たして現在の乙武洋匡(おとたけ ひろただ)氏はあったであろうか。世界には、困難やハンディキャップがあったからこそ豊に人生を送っている人たちがたくさんいる。
仙道家の島田明徳氏は彼の著書「病の意味」の中で次のように記している。『現実ここにいる、つまり、波そのものである皆さんには、自分が“海の現われ”であることが解りません。自分(波)の意識では海(無自覚)を捉えきれないために、波(自覚)だけで存在していると思っているのです。まずなによりも波(自覚)が波だけでは存在できないということを正しく理解して、海(無自覚な働き)が自分を表現させていること、すなわち「法則」があって自分はこの世にいる、ということを正しく理解しなければいけません。(中略)「波」が「海」を自覚するためには、まず波を静めることが必要です。「私は波です」といつも波立てていたのでは、自分が「海」であることに永遠に気付けないでしょう』と。
この論理に当てはめて考えるなら、乙武氏は自分の存在を海の側から感じていたにちがいない。そして、海である自分を自覚することで荒れ狂う波(不自由な自分)を静め、その結果現在の環境を手にしたのだろう。
私たちの目の前にある「苦や不自由」は、決して無意味な「苦や不自由」ではないのだ。その向う側には「楽」につながる叡知が秘められている。「苦」はひとつの現象であって全体ではない。
以前、NY大学のリハビリテーション研究室の壁に書かれた読み人知らずの「祈り」という詩を紹介したことがあった。その詩はこう締括られている。「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私は最も豊かに祝福されたのだ」と。
私は退社以来、物理的に損か得かで生きる部分を極力少なくし、楽しい、気持ちがいいと感じる方向に向かって生きよう、すべからく光のある方へ進もう、そして、捨てることを怖れまいと念じながら日々を暮らしてきた。
そしてそんな自分の想いを通して最近、「他人の評価する自分の幻影に翻弄されにくくなった自分」に出逢った。私のような凡人でも、強く念じつづければ、宇宙の法理は確かに“豊かな祝福”を与えてくれるように感じるのだ。
2002年2月
人前とは裏腹に、一人になるといつも何かを怖れている。お金がない、借金がある、自分の家がない、会社での地位が低い、リストラされた、学歴がない、信じていた人に裏切られた、誰かにいじ苛められている、重い病気を患っている、ハンディキャップをもって生まれた、差別されている、離婚した、嫁姑とうまくいかない、子供が反抗している、一人暮らしで不安⋯、等々から自信や生きる気力、希望を失ってしまうのだ。
しかし、いま置かれている自分の立場は、無視しようが、嘆こうが、落ち込もうが、怒ろうが、誰かのせいにしようが、決してなくならないし、そのままでは何も変わらない。ずっといまの自分に付いて回る。そして「ずっと付いて回るのか」と考えてまた落ち込んでしまう。人間は本当に落ち込んだり、心配することが好きな生き物である。
そこで皆さんに試みていただきたいことがある。あなたがこれまで生きてきたなかで「損した」と考えている「自分の持ち物」の項目をすべて正直に書き出してみてほしい。例えば「仕事がない、学歴がない、背が低い、美男美女じゃない、女(男)であること、両親(夫婦)が離婚したこと、貧困な家庭に育ったこと、ハンディキャップをもって生まれたこと⋯etc.」。
その上で、今度は逆にそこから得たものはないかをよーく考えほしい。リストラされて得たものは、学歴がなくて得たものは、女に生まれて得たものは、離婚して得たものは、身障者に生まれて得たものは⋯etc。書き出していただきたい。必ずあるはずだ。
そしてそのことに気付くと、人間っていかに自分に好都合に(一方的な視点で)物事を見ているかが解るだろう。
これら「苦や不自由」から得た叡知は、私たちにとって、実は計り知れないエネルギーに変わっている。健常者として生まれていたら、果たして現在の乙武洋匡(おとたけ ひろただ)氏はあったであろうか。世界には、困難やハンディキャップがあったからこそ豊に人生を送っている人たちがたくさんいる。
仙道家の島田明徳氏は彼の著書「病の意味」の中で次のように記している。『現実ここにいる、つまり、波そのものである皆さんには、自分が“海の現われ”であることが解りません。自分(波)の意識では海(無自覚)を捉えきれないために、波(自覚)だけで存在していると思っているのです。まずなによりも波(自覚)が波だけでは存在できないということを正しく理解して、海(無自覚な働き)が自分を表現させていること、すなわち「法則」があって自分はこの世にいる、ということを正しく理解しなければいけません。(中略)「波」が「海」を自覚するためには、まず波を静めることが必要です。「私は波です」といつも波立てていたのでは、自分が「海」であることに永遠に気付けないでしょう』と。
この論理に当てはめて考えるなら、乙武氏は自分の存在を海の側から感じていたにちがいない。そして、海である自分を自覚することで荒れ狂う波(不自由な自分)を静め、その結果現在の環境を手にしたのだろう。
私たちの目の前にある「苦や不自由」は、決して無意味な「苦や不自由」ではないのだ。その向う側には「楽」につながる叡知が秘められている。「苦」はひとつの現象であって全体ではない。
以前、NY大学のリハビリテーション研究室の壁に書かれた読み人知らずの「祈り」という詩を紹介したことがあった。その詩はこう締括られている。「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私は最も豊かに祝福されたのだ」と。
私は退社以来、物理的に損か得かで生きる部分を極力少なくし、楽しい、気持ちがいいと感じる方向に向かって生きよう、すべからく光のある方へ進もう、そして、捨てることを怖れまいと念じながら日々を暮らしてきた。
そしてそんな自分の想いを通して最近、「他人の評価する自分の幻影に翻弄されにくくなった自分」に出逢った。私のような凡人でも、強く念じつづければ、宇宙の法理は確かに“豊かな祝福”を与えてくれるように感じるのだ。
2002年2月
2009年3月23日月曜日
週末断食
さて、予てより要望のありました断食についてお話、並びにご説明いたします。まず、私が断食(半断食)を奨励するのは、なによりも自らの(病気克服の)体験が元になっています。この体験につきましては、これまで何度かお話してきましたのでここでは敢えて割愛します。
ところで断食と絶食、似たような表現ですが、意味はどちらも同じと考えていいでしょう。どちらも食を断つという意味ですが、最近は完全水断食を行う指導は少なくなってきました。と言いますのも、半断食(軽い食事をとりながら行う断食)の方が現代人の体質には合っている思われるからです。
断食にはいろいろな方法がありますし、著書も数多くありますので勉強してみるのもいいでしょう。ここでは私の体験を通して推薦できる方法をひとつ選んでご紹介したいと思います。
まず断食の目的を簡単に述べますと、それは身体の大掃除。つまり病気の根本的原因の一つは血液の濁りにあると考えています。そこで断食することによって、内蔵諸器官が休まり、過食からくる過剰栄養分が消耗されます。そして、全身の老廃物(宿便と呼ばれているものも含む)が排出されることで細胞に活力が生まれ、自律神経や内分泌機能が調整されて、いろいろな病状が短期間に治りやすくなるということです。
ここにご紹介するのは短期間(2日間)の断食ですから、あまり神経過敏にならずに行えます。この二日間の断食は、期間が短いので敢えて水断食にします。と言っても侮ってはいけません。いくつかの決まり事は必ず守ってください。とくに、復食は断食の命とも言えるもので、復食の成否が断食のイコール成否と言っても過言ではないのです。
【注意すべきこと】
断食に対して余計な不安をもたないこと。食べなければ力が湧かないなど、イメージで自らを追い込まないこと。確かに腹は空きますが、空腹を感じるたびに体内がまたひとつキレイになっているのだと念じてください。眠くなることがあります、状況が許せば眠ってください。また、いたって普通に生活してください。特別ハードでなければ運動をしても問題ありません。お風呂はぬるいシャワーをサッと浴び短時間に切り上げてください。
【断食前夜】
朝食・昼食を通常の5割程度のボリュームにしてください。動物性蛋白は摂らないように。夜食は抜きます。
【半断食当日〜翌日(2日間)】
朝から何も食べません。しかし、水やお茶は最低1時間に1回程度摂るといいでしょう。(麦茶、ハトムギ茶、柿の葉茶など、緑茶のような刺激の強いものは避ける)
【復食・1日目】
朝食から復食を開始します。無農薬であれば理想ですが、難しければ普通のものでも結構です。ニンジン、ダイコン、キャベツ、キュウリ、カブ⋯、5種類程度の野菜を、ステック状に切り、食べやすい大きさに切り、各々軽く一握り程度を食します。その時、少しの自然塩を振りかけながら食しても構いません。よく嚼んでください。また、こうした野菜を用意できない人は玄米五分粥(お茶碗に軽く一杯)でも構いません。副食は梅干しや塩昆布などをほんの少々。飲み物は、断食中のお茶や水、それに番茶を加えてもかまいません。便意をもよおしましたら、内容をよく観察してみてください。
【夕食】
季節の青野菜のスープや味噌汁(出汁は昆布)、玄米七分粥(なければ白米)などの軽いものにしてください。但し、全ての量は普通食の1/3程度に。
【復食・2日目〜】
朝は五分粥を茶碗に軽く一杯程度。昼食・夕食は通常の半分。3日目から5日目ぐらいは、できるだけ一日2食で腹七分目。復食が始まってから一週間程度は動物性蛋白や油物を摂らないようにしてください。そして、毎日の排便を観察してください。よい便は、匂いもかぐわしく、色もきれいな山吹色です。とにかくよく嚼むことが大切です。
(断食と体質)
近年まさに断食、絶食は若い人たちにも大人気です。テレビでもダイエット特集などで、日本各地の断食道場がよく取り上げられます。しかし、断食の意味を知らずして、闇雲に信じたり、また解ったつもりで手前勝手に行うのはとても危険なことです。まずは基本を知ることが大切です。断食イコール万人に合う健康法というわけではないのです。
断食を行なおうと思う人は、どちらかというと陰性体質の人が多いと言われています。普段から肉食を好み血の気の多い陽性体質の人ほど、断食などやろうとしません。本来、こういう人こそが断食に向いているのですが。
そこで、砂糖、コーヒー、果物、市販の白パンなどを食べ運動不足で胃腸がやられている陰性で貧血な人には、従来の水断食はどちらかというとマイナスになります。
つまり、血液がキレイであると同時に濃くなければ、毒は排出されないのです。したがって、貧血の人はなにはともあれキレイな血を増やすことを考えなければ、体内に蓄積している毒を排出することはできないのです。
そういった観念から、食を摂りながら行う半断食が最近脚光を浴びてきたわけです。ここにみなさんに奨励した断食は、極めて短期間のものなので期間中の摂取は水又はお茶のみとしています。しかし、この短期間の断食ですら、実際には驚くべき効果を生む場合もありますから楽しみです。
(反応について)
短期間ですから、一週間程度行う半断食に比べますと反応は少ないと思いますが、留意点をいくつか挙げておきます。
一般的に半断食を行うと、めまい、立ちくらみを感じる場合があります。尿は濃くなり、悪臭を伴ったりしもます。肩や背中、首の凝り、頭痛、手術した部位の痛み、口臭、胃部の不快感など。初期の反応として眠気、冬の時期にはひどい寒け、逆に顏の火照りなどもあります。総論的に見て、いま持っている悪い部分は一時的に症状が顕著になったりします。一時的に手足がむくんだり、精神的にはネガティヴになりがちです。女性の生理も周期が狂ったりします。
しかし、ここで行う断食は短期間ですから、あまり神経質になる必要はないと思います。あくまでも参考として記しておきます。
さてその対応ですが、陰性の症状には陽性の、陽性の症状には陰性の飲み物を原則的に用います。
例として、だるい、眠い、落ち込むといった陰性の症状に対しては、塩気のある飲み物(味噌汁、梅しょう番茶)が効きます。また、身体が火照る、濃い舌苔ができたり、イライラしたりする症状に対しては、野菜スープや果汁などの陰性の飲み物が効くわけです。
(健康は日々の努力から)
さて、ここまで簡単に断食・半断食について説明してきました。最後に、私たちが決して忘れてはならないことを申し上げます。半断食にせよ、足法にせよ、正中心鍛練法、自然流体操にせよ、継続なきところに結果は生まれないということを記憶しておいてください。日々続けるということです。
ある人の「神はどこにいるのか」との質問に対し、「神は細部に宿る」と答えたという話を漠然と記憶していますが、まさに私たちの健康もまた細部、つまり日々の精進に宿るのです。
最近は、どこもかしこも「すぐ治る、すぐ効く」とか、「驚くべき〜、奇跡の〜」などの宣伝文句が街中に溢れ返っています。筋肉まで電気器具で鍛えようと⋯。かくしてその実態は、言わずもがなですね。
信じたら続ける。粛々と続けてみる。その体験なくして同意も反論もありません。シンプルなものほどプロセスは一見退屈に見えて深く、やればやるほど、接すれば接するほど、奥の深さが見えてくるものではなかろうかと思います。断食、半断食についても書けば一冊の本になります。ここでは、私の体験を元に、いま必要と思われる概要のみを記しました。機会があれば他の書物にも目を通していただき、より理解を深めながら細部に神を宿していただければ幸いです。
ところで断食と絶食、似たような表現ですが、意味はどちらも同じと考えていいでしょう。どちらも食を断つという意味ですが、最近は完全水断食を行う指導は少なくなってきました。と言いますのも、半断食(軽い食事をとりながら行う断食)の方が現代人の体質には合っている思われるからです。
断食にはいろいろな方法がありますし、著書も数多くありますので勉強してみるのもいいでしょう。ここでは私の体験を通して推薦できる方法をひとつ選んでご紹介したいと思います。
まず断食の目的を簡単に述べますと、それは身体の大掃除。つまり病気の根本的原因の一つは血液の濁りにあると考えています。そこで断食することによって、内蔵諸器官が休まり、過食からくる過剰栄養分が消耗されます。そして、全身の老廃物(宿便と呼ばれているものも含む)が排出されることで細胞に活力が生まれ、自律神経や内分泌機能が調整されて、いろいろな病状が短期間に治りやすくなるということです。
ここにご紹介するのは短期間(2日間)の断食ですから、あまり神経過敏にならずに行えます。この二日間の断食は、期間が短いので敢えて水断食にします。と言っても侮ってはいけません。いくつかの決まり事は必ず守ってください。とくに、復食は断食の命とも言えるもので、復食の成否が断食のイコール成否と言っても過言ではないのです。
【注意すべきこと】
断食に対して余計な不安をもたないこと。食べなければ力が湧かないなど、イメージで自らを追い込まないこと。確かに腹は空きますが、空腹を感じるたびに体内がまたひとつキレイになっているのだと念じてください。眠くなることがあります、状況が許せば眠ってください。また、いたって普通に生活してください。特別ハードでなければ運動をしても問題ありません。お風呂はぬるいシャワーをサッと浴び短時間に切り上げてください。
【断食前夜】
朝食・昼食を通常の5割程度のボリュームにしてください。動物性蛋白は摂らないように。夜食は抜きます。
【半断食当日〜翌日(2日間)】
朝から何も食べません。しかし、水やお茶は最低1時間に1回程度摂るといいでしょう。(麦茶、ハトムギ茶、柿の葉茶など、緑茶のような刺激の強いものは避ける)
【復食・1日目】
朝食から復食を開始します。無農薬であれば理想ですが、難しければ普通のものでも結構です。ニンジン、ダイコン、キャベツ、キュウリ、カブ⋯、5種類程度の野菜を、ステック状に切り、食べやすい大きさに切り、各々軽く一握り程度を食します。その時、少しの自然塩を振りかけながら食しても構いません。よく嚼んでください。また、こうした野菜を用意できない人は玄米五分粥(お茶碗に軽く一杯)でも構いません。副食は梅干しや塩昆布などをほんの少々。飲み物は、断食中のお茶や水、それに番茶を加えてもかまいません。便意をもよおしましたら、内容をよく観察してみてください。
【夕食】
季節の青野菜のスープや味噌汁(出汁は昆布)、玄米七分粥(なければ白米)などの軽いものにしてください。但し、全ての量は普通食の1/3程度に。
【復食・2日目〜】
朝は五分粥を茶碗に軽く一杯程度。昼食・夕食は通常の半分。3日目から5日目ぐらいは、できるだけ一日2食で腹七分目。復食が始まってから一週間程度は動物性蛋白や油物を摂らないようにしてください。そして、毎日の排便を観察してください。よい便は、匂いもかぐわしく、色もきれいな山吹色です。とにかくよく嚼むことが大切です。
(断食と体質)
近年まさに断食、絶食は若い人たちにも大人気です。テレビでもダイエット特集などで、日本各地の断食道場がよく取り上げられます。しかし、断食の意味を知らずして、闇雲に信じたり、また解ったつもりで手前勝手に行うのはとても危険なことです。まずは基本を知ることが大切です。断食イコール万人に合う健康法というわけではないのです。
断食を行なおうと思う人は、どちらかというと陰性体質の人が多いと言われています。普段から肉食を好み血の気の多い陽性体質の人ほど、断食などやろうとしません。本来、こういう人こそが断食に向いているのですが。
そこで、砂糖、コーヒー、果物、市販の白パンなどを食べ運動不足で胃腸がやられている陰性で貧血な人には、従来の水断食はどちらかというとマイナスになります。
つまり、血液がキレイであると同時に濃くなければ、毒は排出されないのです。したがって、貧血の人はなにはともあれキレイな血を増やすことを考えなければ、体内に蓄積している毒を排出することはできないのです。
そういった観念から、食を摂りながら行う半断食が最近脚光を浴びてきたわけです。ここにみなさんに奨励した断食は、極めて短期間のものなので期間中の摂取は水又はお茶のみとしています。しかし、この短期間の断食ですら、実際には驚くべき効果を生む場合もありますから楽しみです。
(反応について)
短期間ですから、一週間程度行う半断食に比べますと反応は少ないと思いますが、留意点をいくつか挙げておきます。
一般的に半断食を行うと、めまい、立ちくらみを感じる場合があります。尿は濃くなり、悪臭を伴ったりしもます。肩や背中、首の凝り、頭痛、手術した部位の痛み、口臭、胃部の不快感など。初期の反応として眠気、冬の時期にはひどい寒け、逆に顏の火照りなどもあります。総論的に見て、いま持っている悪い部分は一時的に症状が顕著になったりします。一時的に手足がむくんだり、精神的にはネガティヴになりがちです。女性の生理も周期が狂ったりします。
しかし、ここで行う断食は短期間ですから、あまり神経質になる必要はないと思います。あくまでも参考として記しておきます。
さてその対応ですが、陰性の症状には陽性の、陽性の症状には陰性の飲み物を原則的に用います。
例として、だるい、眠い、落ち込むといった陰性の症状に対しては、塩気のある飲み物(味噌汁、梅しょう番茶)が効きます。また、身体が火照る、濃い舌苔ができたり、イライラしたりする症状に対しては、野菜スープや果汁などの陰性の飲み物が効くわけです。
(健康は日々の努力から)
さて、ここまで簡単に断食・半断食について説明してきました。最後に、私たちが決して忘れてはならないことを申し上げます。半断食にせよ、足法にせよ、正中心鍛練法、自然流体操にせよ、継続なきところに結果は生まれないということを記憶しておいてください。日々続けるということです。
ある人の「神はどこにいるのか」との質問に対し、「神は細部に宿る」と答えたという話を漠然と記憶していますが、まさに私たちの健康もまた細部、つまり日々の精進に宿るのです。
最近は、どこもかしこも「すぐ治る、すぐ効く」とか、「驚くべき〜、奇跡の〜」などの宣伝文句が街中に溢れ返っています。筋肉まで電気器具で鍛えようと⋯。かくしてその実態は、言わずもがなですね。
信じたら続ける。粛々と続けてみる。その体験なくして同意も反論もありません。シンプルなものほどプロセスは一見退屈に見えて深く、やればやるほど、接すれば接するほど、奥の深さが見えてくるものではなかろうかと思います。断食、半断食についても書けば一冊の本になります。ここでは、私の体験を元に、いま必要と思われる概要のみを記しました。機会があれば他の書物にも目を通していただき、より理解を深めながら細部に神を宿していただければ幸いです。
2009年3月19日木曜日
足法元年は、青春元年
『青春』(原作:サミエル・ウルマン、邦訳:岡田義夫)
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心のようそう様相を言うのだ。優れた創造力、たくま逞しき意志、炎ゆる情熱、きょうだ怯懦をしりぞ却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
くもん苦悶やこぎ狐疑や、不安、恐怖、失望、こういうものこそあたか恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をもあくた芥に帰せしめてしまう。
歳は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめくせいしん星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対するきんぎょう欽仰、事に処するごうき剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、ひたん悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉のあつごおり厚氷がこれを堅く閉ざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
怯懦:臆病で意志の弱い様子
狐疑:あれこれ疑問を抱いて決心がつかない様子
芥 :ごみ・ちりの意
星辰:星の意。漢語的表現
欽仰:うやまい仰ぐ意
剛毅:気性が強く物事にくじけない意
言わば足法元年とも云える2002年の始まりに、私はサミエル・ウルマンの「青春」という詩を選びました。この「青春」の詩は、ウルマンが70代で書いたものです。この詩の一部を知っている人は多いと思いますが、全編を読んだ方は意外と少ないのではないでしょうか。
彼は1840年4月13日、ドイツのヘヒンゲンでユダヤ人の両親の長男として誕生しました。その後、両親と共にアメリカに移民し、教育者として、またユダヤ教のレイラビ(精神指導者)として、或いは実業家として幅広く活動しました。そして、晩年になって数編の詩をつくりました。この「青春」の詩は1922年に家族が発行した詩集「80年の歳月のいただき頂から」の巻頭に記載されたものです。ウルマンはこの詩集が発表された2年後の1924年3月21日に84歳でこの世を去りました。
この詩に魅了された人たちのなかには、日本駐留米軍最高司令官だったダグラス・マッカーサーや、ジョン・F・ケネディといった名前を見つけることができます。
私が初めてこの詩に触れたのは確か高校生の頃だったと記憶しています。それ以来、忘れた頃に触れ、そしてまた忘れた頃に触れながら、徐々に記憶の片隅で親しさと共感を増しつつ今日を迎えました。歳を重ねる毎にこの詩は、強く、そして清廉な波動を放射しながら私を勇気づけてくれます。
なにかと暗い話題の多い昨今の日本にあって、私たちが忘れ、失いかけている大切な心の在り方を、この詩に触れることで一人でも多くの方々に取り戻すキッカケになっていただければ幸いです。
2002年は足法元年、足法という小さな小さな歴史の始まりであり、それと同時に当塾に集い、この場で自らを修め、解放していく皆さまにとりましては第二・第三の青春元年でもあってほしいと私は心より願っております。
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心のようそう様相を言うのだ。優れた創造力、たくま逞しき意志、炎ゆる情熱、きょうだ怯懦をしりぞ却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
くもん苦悶やこぎ狐疑や、不安、恐怖、失望、こういうものこそあたか恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をもあくた芥に帰せしめてしまう。
歳は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめくせいしん星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対するきんぎょう欽仰、事に処するごうき剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、ひたん悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉のあつごおり厚氷がこれを堅く閉ざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
怯懦:臆病で意志の弱い様子
狐疑:あれこれ疑問を抱いて決心がつかない様子
芥 :ごみ・ちりの意
星辰:星の意。漢語的表現
欽仰:うやまい仰ぐ意
剛毅:気性が強く物事にくじけない意
言わば足法元年とも云える2002年の始まりに、私はサミエル・ウルマンの「青春」という詩を選びました。この「青春」の詩は、ウルマンが70代で書いたものです。この詩の一部を知っている人は多いと思いますが、全編を読んだ方は意外と少ないのではないでしょうか。
彼は1840年4月13日、ドイツのヘヒンゲンでユダヤ人の両親の長男として誕生しました。その後、両親と共にアメリカに移民し、教育者として、またユダヤ教のレイラビ(精神指導者)として、或いは実業家として幅広く活動しました。そして、晩年になって数編の詩をつくりました。この「青春」の詩は1922年に家族が発行した詩集「80年の歳月のいただき頂から」の巻頭に記載されたものです。ウルマンはこの詩集が発表された2年後の1924年3月21日に84歳でこの世を去りました。
この詩に魅了された人たちのなかには、日本駐留米軍最高司令官だったダグラス・マッカーサーや、ジョン・F・ケネディといった名前を見つけることができます。
私が初めてこの詩に触れたのは確か高校生の頃だったと記憶しています。それ以来、忘れた頃に触れ、そしてまた忘れた頃に触れながら、徐々に記憶の片隅で親しさと共感を増しつつ今日を迎えました。歳を重ねる毎にこの詩は、強く、そして清廉な波動を放射しながら私を勇気づけてくれます。
なにかと暗い話題の多い昨今の日本にあって、私たちが忘れ、失いかけている大切な心の在り方を、この詩に触れることで一人でも多くの方々に取り戻すキッカケになっていただければ幸いです。
2002年は足法元年、足法という小さな小さな歴史の始まりであり、それと同時に当塾に集い、この場で自らを修め、解放していく皆さまにとりましては第二・第三の青春元年でもあってほしいと私は心より願っております。
筋肉の智恵
筋肉にも心がある
精神的ストレスによって呼吸筋が影響を受け、呼吸が浅く、速くなることは誰にも経験のあることですが、精神的緊張は呼吸筋だけではなく、全身のすべての筋肉を緊張させています。眉間の皴も、顏のこわ張りも、首や肩の凝りも、それらの全てが、硬くこわ張った心の反映なのです。
すなわち、筋肉は「心のメッセンジャー」とも、「筋肉には心がある」とも云えるのです。精神的ストレスは、意識できるものの他に、誰しもその何倍も、何十倍ものものが、潜在意識の中にある考えられています。
ふつうストレスの元になっている感情や思いをコントロールすることは、なかなか難しく、ましてや潜在意識下にあるものは(これまでの西洋医学的見地では)どうするともできません。しかし、どんな思いが心の内にあろうと、意識的には顔のこわ張りをとり、肩の力を抜いて、ゆっくり長い呼吸はできるはずです。つまり、普段の生活の中で、いつの間にか不隋意的な支配下にある自律神経系が、交感神経系優位の状態になっているものを、随意的に呼吸コントロールし、筋肉を緩めることによって副交感神経系を優位な状態にすることができるのです。
筋肉を意識する
日頃私たちは、胃にしろ、腸にしろ、頭にしろ、どこかが痛いとか辛いとか感じるとき以外、殆ど自分の体を意識することがないと思います。それらの存在を忘れているときにこそ健康であると云えるように思いますが、先に述べたように、無意識下においては、殆どの場合、交感神経系が優位に立ち、浅く速い呼吸をし、体中の筋肉をこわ張らせているのです。
よく耳にする、ストレッチも、歪みの矯正も、呼吸法も、それらの全ては、「筋肉を意識する」ということに繋がります。そしてまたそれらの全ては、筋肉の緊張を緩めるということに繋がるのです。そのことによって、交感神経系を抑制し、副交感神経系優位な状態にすることができるのです。
折りに触れ、頬を緩めて笑顔をつくり、肩の緊張を解いて、ゆっくりと穏やかな呼吸をすることこそ健康への道であると考えます。因みに、ほお骨の下の凹みには若返りのツボがあり、そこを日頃から刺激することをお勧めします。それを自然に行っているのが笑うという行為なのですよ。だから、若返りたかったらよく笑いましょう。
(参考文献:大阪市立大学保健体育科研究室・資料)
精神的ストレスによって呼吸筋が影響を受け、呼吸が浅く、速くなることは誰にも経験のあることですが、精神的緊張は呼吸筋だけではなく、全身のすべての筋肉を緊張させています。眉間の皴も、顏のこわ張りも、首や肩の凝りも、それらの全てが、硬くこわ張った心の反映なのです。
すなわち、筋肉は「心のメッセンジャー」とも、「筋肉には心がある」とも云えるのです。精神的ストレスは、意識できるものの他に、誰しもその何倍も、何十倍ものものが、潜在意識の中にある考えられています。
ふつうストレスの元になっている感情や思いをコントロールすることは、なかなか難しく、ましてや潜在意識下にあるものは(これまでの西洋医学的見地では)どうするともできません。しかし、どんな思いが心の内にあろうと、意識的には顔のこわ張りをとり、肩の力を抜いて、ゆっくり長い呼吸はできるはずです。つまり、普段の生活の中で、いつの間にか不隋意的な支配下にある自律神経系が、交感神経系優位の状態になっているものを、随意的に呼吸コントロールし、筋肉を緩めることによって副交感神経系を優位な状態にすることができるのです。
筋肉を意識する
日頃私たちは、胃にしろ、腸にしろ、頭にしろ、どこかが痛いとか辛いとか感じるとき以外、殆ど自分の体を意識することがないと思います。それらの存在を忘れているときにこそ健康であると云えるように思いますが、先に述べたように、無意識下においては、殆どの場合、交感神経系が優位に立ち、浅く速い呼吸をし、体中の筋肉をこわ張らせているのです。
よく耳にする、ストレッチも、歪みの矯正も、呼吸法も、それらの全ては、「筋肉を意識する」ということに繋がります。そしてまたそれらの全ては、筋肉の緊張を緩めるということに繋がるのです。そのことによって、交感神経系を抑制し、副交感神経系優位な状態にすることができるのです。
折りに触れ、頬を緩めて笑顔をつくり、肩の緊張を解いて、ゆっくりと穏やかな呼吸をすることこそ健康への道であると考えます。因みに、ほお骨の下の凹みには若返りのツボがあり、そこを日頃から刺激することをお勧めします。それを自然に行っているのが笑うという行為なのですよ。だから、若返りたかったらよく笑いましょう。
(参考文献:大阪市立大学保健体育科研究室・資料)
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