『青春』(原作:サミエル・ウルマン、邦訳:岡田義夫)
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心のようそう様相を言うのだ。優れた創造力、たくま逞しき意志、炎ゆる情熱、きょうだ怯懦をしりぞ却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
くもん苦悶やこぎ狐疑や、不安、恐怖、失望、こういうものこそあたか恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をもあくた芥に帰せしめてしまう。
歳は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめくせいしん星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対するきんぎょう欽仰、事に処するごうき剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、ひたん悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉のあつごおり厚氷がこれを堅く閉ざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
怯懦:臆病で意志の弱い様子
狐疑:あれこれ疑問を抱いて決心がつかない様子
芥 :ごみ・ちりの意
星辰:星の意。漢語的表現
欽仰:うやまい仰ぐ意
剛毅:気性が強く物事にくじけない意
言わば足法元年とも云える2002年の始まりに、私はサミエル・ウルマンの「青春」という詩を選びました。この「青春」の詩は、ウルマンが70代で書いたものです。この詩の一部を知っている人は多いと思いますが、全編を読んだ方は意外と少ないのではないでしょうか。
彼は1840年4月13日、ドイツのヘヒンゲンでユダヤ人の両親の長男として誕生しました。その後、両親と共にアメリカに移民し、教育者として、またユダヤ教のレイラビ(精神指導者)として、或いは実業家として幅広く活動しました。そして、晩年になって数編の詩をつくりました。この「青春」の詩は1922年に家族が発行した詩集「80年の歳月のいただき頂から」の巻頭に記載されたものです。ウルマンはこの詩集が発表された2年後の1924年3月21日に84歳でこの世を去りました。
この詩に魅了された人たちのなかには、日本駐留米軍最高司令官だったダグラス・マッカーサーや、ジョン・F・ケネディといった名前を見つけることができます。
私が初めてこの詩に触れたのは確か高校生の頃だったと記憶しています。それ以来、忘れた頃に触れ、そしてまた忘れた頃に触れながら、徐々に記憶の片隅で親しさと共感を増しつつ今日を迎えました。歳を重ねる毎にこの詩は、強く、そして清廉な波動を放射しながら私を勇気づけてくれます。
なにかと暗い話題の多い昨今の日本にあって、私たちが忘れ、失いかけている大切な心の在り方を、この詩に触れることで一人でも多くの方々に取り戻すキッカケになっていただければ幸いです。
2002年は足法元年、足法という小さな小さな歴史の始まりであり、それと同時に当塾に集い、この場で自らを修め、解放していく皆さまにとりましては第二・第三の青春元年でもあってほしいと私は心より願っております。
2009年3月19日木曜日
筋肉の智恵
筋肉にも心がある
精神的ストレスによって呼吸筋が影響を受け、呼吸が浅く、速くなることは誰にも経験のあることですが、精神的緊張は呼吸筋だけではなく、全身のすべての筋肉を緊張させています。眉間の皴も、顏のこわ張りも、首や肩の凝りも、それらの全てが、硬くこわ張った心の反映なのです。
すなわち、筋肉は「心のメッセンジャー」とも、「筋肉には心がある」とも云えるのです。精神的ストレスは、意識できるものの他に、誰しもその何倍も、何十倍ものものが、潜在意識の中にある考えられています。
ふつうストレスの元になっている感情や思いをコントロールすることは、なかなか難しく、ましてや潜在意識下にあるものは(これまでの西洋医学的見地では)どうするともできません。しかし、どんな思いが心の内にあろうと、意識的には顔のこわ張りをとり、肩の力を抜いて、ゆっくり長い呼吸はできるはずです。つまり、普段の生活の中で、いつの間にか不隋意的な支配下にある自律神経系が、交感神経系優位の状態になっているものを、随意的に呼吸コントロールし、筋肉を緩めることによって副交感神経系を優位な状態にすることができるのです。
筋肉を意識する
日頃私たちは、胃にしろ、腸にしろ、頭にしろ、どこかが痛いとか辛いとか感じるとき以外、殆ど自分の体を意識することがないと思います。それらの存在を忘れているときにこそ健康であると云えるように思いますが、先に述べたように、無意識下においては、殆どの場合、交感神経系が優位に立ち、浅く速い呼吸をし、体中の筋肉をこわ張らせているのです。
よく耳にする、ストレッチも、歪みの矯正も、呼吸法も、それらの全ては、「筋肉を意識する」ということに繋がります。そしてまたそれらの全ては、筋肉の緊張を緩めるということに繋がるのです。そのことによって、交感神経系を抑制し、副交感神経系優位な状態にすることができるのです。
折りに触れ、頬を緩めて笑顔をつくり、肩の緊張を解いて、ゆっくりと穏やかな呼吸をすることこそ健康への道であると考えます。因みに、ほお骨の下の凹みには若返りのツボがあり、そこを日頃から刺激することをお勧めします。それを自然に行っているのが笑うという行為なのですよ。だから、若返りたかったらよく笑いましょう。
(参考文献:大阪市立大学保健体育科研究室・資料)
精神的ストレスによって呼吸筋が影響を受け、呼吸が浅く、速くなることは誰にも経験のあることですが、精神的緊張は呼吸筋だけではなく、全身のすべての筋肉を緊張させています。眉間の皴も、顏のこわ張りも、首や肩の凝りも、それらの全てが、硬くこわ張った心の反映なのです。
すなわち、筋肉は「心のメッセンジャー」とも、「筋肉には心がある」とも云えるのです。精神的ストレスは、意識できるものの他に、誰しもその何倍も、何十倍ものものが、潜在意識の中にある考えられています。
ふつうストレスの元になっている感情や思いをコントロールすることは、なかなか難しく、ましてや潜在意識下にあるものは(これまでの西洋医学的見地では)どうするともできません。しかし、どんな思いが心の内にあろうと、意識的には顔のこわ張りをとり、肩の力を抜いて、ゆっくり長い呼吸はできるはずです。つまり、普段の生活の中で、いつの間にか不隋意的な支配下にある自律神経系が、交感神経系優位の状態になっているものを、随意的に呼吸コントロールし、筋肉を緩めることによって副交感神経系を優位な状態にすることができるのです。
筋肉を意識する
日頃私たちは、胃にしろ、腸にしろ、頭にしろ、どこかが痛いとか辛いとか感じるとき以外、殆ど自分の体を意識することがないと思います。それらの存在を忘れているときにこそ健康であると云えるように思いますが、先に述べたように、無意識下においては、殆どの場合、交感神経系が優位に立ち、浅く速い呼吸をし、体中の筋肉をこわ張らせているのです。
よく耳にする、ストレッチも、歪みの矯正も、呼吸法も、それらの全ては、「筋肉を意識する」ということに繋がります。そしてまたそれらの全ては、筋肉の緊張を緩めるということに繋がるのです。そのことによって、交感神経系を抑制し、副交感神経系優位な状態にすることができるのです。
折りに触れ、頬を緩めて笑顔をつくり、肩の緊張を解いて、ゆっくりと穏やかな呼吸をすることこそ健康への道であると考えます。因みに、ほお骨の下の凹みには若返りのツボがあり、そこを日頃から刺激することをお勧めします。それを自然に行っているのが笑うという行為なのですよ。だから、若返りたかったらよく笑いましょう。
(参考文献:大阪市立大学保健体育科研究室・資料)
2009年3月17日火曜日
イライラ、クヨクヨはカラダを蝕む
東北で開催された足法講習会でのことです。私が出ていくと、みなさん食い入るように私を見つめています。足法の先生とはいったいどんな奴なんだ、どんな立派な話をしてくれるんだ、といった感じです。こちらも人間です。そんなとって食ってやるぞと言った雰囲気では、せっかく癒されに来た人たちと楽しい時間を過ごせません。そこで私は集まった受講者の皆さんを前に、「今日は、みなさんお一人お一人に前に出てきていただき、自己紹介をしてもらいます」と云ったところ、それまでの態度がパッと変わって、いきなり参加者の顏や体にピピッと緊張が走るの感じました。そう言って10秒ほど黙って全体を見回していますと、私の魂胆に気付いたらしい人が笑みを漏らし、やがて皆さん納得されたように笑顔に変わっていきました。
今日は筋肉のお話をしましょう、と云った直後の私の発言の意図が理解できたのでしょう。まさに百聞は一見に如かず、です。そのちょっとした実験で、もう皆さん筋肉がいかに瞬時に硬直したり、逆に弛んだりするかが体感として理解できたのだと思います。
私はよく「想い」が大切と云います。私たちの脳は、現実の出来事とイメージしたものとの区別がつかないと医学の世界では報告されています。私との会話に夢中になってた友人が、かき氷を口元に運んだ瞬間「熱ちッ」と云ったことがあります。唇に伝わった刺激を、彼の脳は「熱い物」とイメージしたのでしょう。
脳は、心地よい刺激には快楽ホルモンが分泌し、不快な刺激にはアドレナリンやノルアドレナリンを分泌します。山を歩いていて「熊だ!」とか、夜中に突然「火事だ!」なんて恐怖を感じたときにはアドレナリンが分泌されます。一方、ノルアドレナリンは激怒したりすると出るホルモンで、この二つは言わば非常事態を乗りきるための重要なホルモンとも云えるのです。
問題は、この二つのホルモンが年がら年中体内を巡っている状態は危険だということです。怒ったり、恐れたり、クヨクヨしたりと、とにかくネガティヴなことばかり考えて落ち込んでいると、このホルモンが含む猛毒にやられて、免疫力の低下や老化が進み、大病を患ったり早死にしてしまう可能性があるのです。(因に最小致死量は、体重1㎏当たり1㎎以下。蛇の毒より強いと言われたいます)
ノルアドレナリンもアドレナリンもサリン程の猛毒の分子であり、過剰分泌が問題視されています。不平不満・愚痴・悪口の巣窟のような人はもう大変てすね。そこで皆さんに思い出していただきたいのが「想い」の活用、つまり脳の用い方です。
脳は左右で役割が違っており、左脳で緊張し、右能でリラックスします。怒ったり、落ち込んだり、ねた嫉んだり、恨んだりしていると左脳優位になり、ノルアドレナリン漬けになります。ですから右能優位にもっていく必要があります。それには腹式呼吸がもってこいです。つまり、瞑想をするときの呼吸です。息を吸うときは交感神経が刺激され、吐くときは副交感神経が刺激されます。ですから呼気を長—くすることで、副交感神経が優位に働き、イライラやクヨクヨ、ムカムカが鎮まっていきます。そうすると右能優位の落ち着いた気分になってきます。
自然流体操にも瞑想に勝るとも劣らず、右能を活性化するパワーがあります。顏も体もダラーッと力を抜いて、10分〜30分、無心にクネクネするのです。このクネクネ中にα波が脳から出て三昧の境地に入っていくことができます。筋肉が弛めば持てる自然の力を存分に発揮してくれます。怒らず、恐れず、拘らず、強く、明るく、元気よく、今日一日に感謝しながら、自分らしくワクワクすることを優先してやりましょう。健康は、その後からついてきます。体内では、私たちの想像を超えた奇跡が毎日のように起こっているのですから。
今日は筋肉のお話をしましょう、と云った直後の私の発言の意図が理解できたのでしょう。まさに百聞は一見に如かず、です。そのちょっとした実験で、もう皆さん筋肉がいかに瞬時に硬直したり、逆に弛んだりするかが体感として理解できたのだと思います。
私はよく「想い」が大切と云います。私たちの脳は、現実の出来事とイメージしたものとの区別がつかないと医学の世界では報告されています。私との会話に夢中になってた友人が、かき氷を口元に運んだ瞬間「熱ちッ」と云ったことがあります。唇に伝わった刺激を、彼の脳は「熱い物」とイメージしたのでしょう。
脳は、心地よい刺激には快楽ホルモンが分泌し、不快な刺激にはアドレナリンやノルアドレナリンを分泌します。山を歩いていて「熊だ!」とか、夜中に突然「火事だ!」なんて恐怖を感じたときにはアドレナリンが分泌されます。一方、ノルアドレナリンは激怒したりすると出るホルモンで、この二つは言わば非常事態を乗りきるための重要なホルモンとも云えるのです。
問題は、この二つのホルモンが年がら年中体内を巡っている状態は危険だということです。怒ったり、恐れたり、クヨクヨしたりと、とにかくネガティヴなことばかり考えて落ち込んでいると、このホルモンが含む猛毒にやられて、免疫力の低下や老化が進み、大病を患ったり早死にしてしまう可能性があるのです。(因に最小致死量は、体重1㎏当たり1㎎以下。蛇の毒より強いと言われたいます)
ノルアドレナリンもアドレナリンもサリン程の猛毒の分子であり、過剰分泌が問題視されています。不平不満・愚痴・悪口の巣窟のような人はもう大変てすね。そこで皆さんに思い出していただきたいのが「想い」の活用、つまり脳の用い方です。
脳は左右で役割が違っており、左脳で緊張し、右能でリラックスします。怒ったり、落ち込んだり、ねた嫉んだり、恨んだりしていると左脳優位になり、ノルアドレナリン漬けになります。ですから右能優位にもっていく必要があります。それには腹式呼吸がもってこいです。つまり、瞑想をするときの呼吸です。息を吸うときは交感神経が刺激され、吐くときは副交感神経が刺激されます。ですから呼気を長—くすることで、副交感神経が優位に働き、イライラやクヨクヨ、ムカムカが鎮まっていきます。そうすると右能優位の落ち着いた気分になってきます。
自然流体操にも瞑想に勝るとも劣らず、右能を活性化するパワーがあります。顏も体もダラーッと力を抜いて、10分〜30分、無心にクネクネするのです。このクネクネ中にα波が脳から出て三昧の境地に入っていくことができます。筋肉が弛めば持てる自然の力を存分に発揮してくれます。怒らず、恐れず、拘らず、強く、明るく、元気よく、今日一日に感謝しながら、自分らしくワクワクすることを優先してやりましょう。健康は、その後からついてきます。体内では、私たちの想像を超えた奇跡が毎日のように起こっているのですから。
2009年2月6日金曜日
生き方の本質を学ぶ(老子より)
「日本人の脳」の研究で有名な、東京医科歯科大学の名誉教授、角田忠信氏によると、1995年11月20日午前を期して、脳の基本時間基準が変化したと発表されています。つまり、この時点で、宇宙的規模でなにか新しい時代に突入したのではないかと考える、専門家がいま多数います。
確かに、私たちの周囲を見渡すとき、なにかこれまで(バブル経済を代表とする拡大路線)とは違う、人間の内なる要求が、現われてきているように感じます。
例えば、なぜいま皆さんは「今」ここに集うのか。それは、健康でありたいからです。実は、それはとても本質的な行動であるわけです。老子もそのことを語っています。その要約を読んでみます⋯
寵愛(上司や他人の目を気にすること)をうけるか屈辱をうけるか、人々はそれにビクビクして不安でいる。それは名誉とか財産とかいった大きな心配事を大切なものとして、我が身と同じように考えているからだ。寵愛と屈辱とにビクビクと不安でいるというのは、どういうことか。寵愛を良いこととし、屈辱を悪いこととして、うまくいくかとビクビクし、ダメになるかと不安でいる。それが寵愛と屈辱とにビクビクと不安でいるということだ。名誉とか財産とかの大きな心配事を大切なものとして、我が身と同じように考えているというのは、どういうことか。我々が大きく心配事を持つことになるのは、我々に身体があってこそのことだ。我々に身体がないということであれば、我々になんの心配事が起ころうか。してみると、身体こそが根本だと分かるだろう。だから、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを大切にするという人にこそ、天下を任せることができるし、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを労るという人にこそ、天下を預けることができるのだ。
企業のために命を捧げることが会社人として当然の使命と考えられていた時代がありました。日本経済の右肩上がりを支えた人たちですが、前回にも申し上げましたが、それが楽しくて仕方ない行為であれば、それはそれでいいわけですが、そうでないことの方が圧倒的に多いわけです。
しかし、時代は移り変わり、人々の意識も大きく変化した今、私たちは「個」、
個人の「個」に戻り、その本質に目覚めていくとき、自らと同じように他人も大切にすることを知ります。
お釈迦さんの話。
我れが我れがと生きていても、実は全体の中で精緻なバランスがとられているわけで、まさにこれこそが宇宙律のなかで生きている所以です。
幸せの秘訣、健康の秘訣は、なんの疑いもなく、宇宙の秩序に行動と思考を合わせていくこと。難しく考える必要はなにもありません。よく、人様に迷惑をかけない、という表現がありますが、むしろ、自分がしてほしいことは、他人もしてほしいし、自分がしてほしくないことは、他人もまたしてほしくないことなわけです。
健康というものも、あの薬が効くとか、どこそこに整体の達人がいるから、といった、そういった外の声を聞くのではなく、自らの身体の内なる声を聞き届けることが大切であります。しかし、我れの欲求でいっぱいの人は、身体も心もカチカチに硬直して、自然感覚が希薄になります。気をつけたいですね。
ここでもうひとつ、老子が「侍して満たすは⋯、つまり身の引き時」について語っていますので、ご紹介します。
いつまでも器をいっぱいにして満たし続けようするのは、止めたほうがよい。鍛えに鍛えてギリギリまで刃先を鋭くしたものは、そのままで長く保てるわけはない。黄金や宝玉が家中いっぱいにあるというのは、とても守りきれるものではない。財産と地位ができて頭が高くなると、自分で破滅を招くことになる。仕事をやり遂げたなら、さっさと身を引いて引退する。それが天の道、自然の運び方、というものだ。
私たちの、祖父祖母の暮らし方を思いだすとき、まさにそこには自然と一体となったものを感じます。いかに科学が進歩しようと、私たちは自然の恩恵をこうむって生きているわけで、いま一度、自分の生き方を見つめ、そのなかで、健康と対峙していただきたいと思います。
確かに、私たちの周囲を見渡すとき、なにかこれまで(バブル経済を代表とする拡大路線)とは違う、人間の内なる要求が、現われてきているように感じます。
例えば、なぜいま皆さんは「今」ここに集うのか。それは、健康でありたいからです。実は、それはとても本質的な行動であるわけです。老子もそのことを語っています。その要約を読んでみます⋯
寵愛(上司や他人の目を気にすること)をうけるか屈辱をうけるか、人々はそれにビクビクして不安でいる。それは名誉とか財産とかいった大きな心配事を大切なものとして、我が身と同じように考えているからだ。寵愛と屈辱とにビクビクと不安でいるというのは、どういうことか。寵愛を良いこととし、屈辱を悪いこととして、うまくいくかとビクビクし、ダメになるかと不安でいる。それが寵愛と屈辱とにビクビクと不安でいるということだ。名誉とか財産とかの大きな心配事を大切なものとして、我が身と同じように考えているというのは、どういうことか。我々が大きく心配事を持つことになるのは、我々に身体があってこそのことだ。我々に身体がないということであれば、我々になんの心配事が起ころうか。してみると、身体こそが根本だと分かるだろう。だから、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを大切にするという人にこそ、天下を任せることができるし、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを労るという人にこそ、天下を預けることができるのだ。
企業のために命を捧げることが会社人として当然の使命と考えられていた時代がありました。日本経済の右肩上がりを支えた人たちですが、前回にも申し上げましたが、それが楽しくて仕方ない行為であれば、それはそれでいいわけですが、そうでないことの方が圧倒的に多いわけです。
しかし、時代は移り変わり、人々の意識も大きく変化した今、私たちは「個」、
個人の「個」に戻り、その本質に目覚めていくとき、自らと同じように他人も大切にすることを知ります。
お釈迦さんの話。
我れが我れがと生きていても、実は全体の中で精緻なバランスがとられているわけで、まさにこれこそが宇宙律のなかで生きている所以です。
幸せの秘訣、健康の秘訣は、なんの疑いもなく、宇宙の秩序に行動と思考を合わせていくこと。難しく考える必要はなにもありません。よく、人様に迷惑をかけない、という表現がありますが、むしろ、自分がしてほしいことは、他人もしてほしいし、自分がしてほしくないことは、他人もまたしてほしくないことなわけです。
健康というものも、あの薬が効くとか、どこそこに整体の達人がいるから、といった、そういった外の声を聞くのではなく、自らの身体の内なる声を聞き届けることが大切であります。しかし、我れの欲求でいっぱいの人は、身体も心もカチカチに硬直して、自然感覚が希薄になります。気をつけたいですね。
ここでもうひとつ、老子が「侍して満たすは⋯、つまり身の引き時」について語っていますので、ご紹介します。
いつまでも器をいっぱいにして満たし続けようするのは、止めたほうがよい。鍛えに鍛えてギリギリまで刃先を鋭くしたものは、そのままで長く保てるわけはない。黄金や宝玉が家中いっぱいにあるというのは、とても守りきれるものではない。財産と地位ができて頭が高くなると、自分で破滅を招くことになる。仕事をやり遂げたなら、さっさと身を引いて引退する。それが天の道、自然の運び方、というものだ。
私たちの、祖父祖母の暮らし方を思いだすとき、まさにそこには自然と一体となったものを感じます。いかに科学が進歩しようと、私たちは自然の恩恵をこうむって生きているわけで、いま一度、自分の生き方を見つめ、そのなかで、健康と対峙していただきたいと思います。
地限場限(じぎりばぎり)
今年も残すところあと僅かとなりました。みなさんは今年一年を振り返って如何でしたか。月日の経つのが早い、という発言をよく耳にしますが、個人的に或いは社会的に、この1年間に起こったことを手繰ってみますと、やはり365日はそれなりに長く、春夏秋冬折々に私たちは機微に触れて生きていることを思い知らされます。
マスコミを通じて私たちに届いてくる事件や事故の数は増加の一途を辿り、ひとくちに凶悪犯罪という表現では済まされない、人間の尊厳が問われるようなものが非常に多くなっています。
それでいながら、そんな凶悪な犯罪や悲惨な事件・事故も、悲しいかなアッというまに色褪せてしまい、聞かれてもすぐには思い出せないほど、加速度的に新たな出来事が次々に発生しています。
そんな最中、以前にもお話しましたが、ポール・ゴーギャンが死を決意し自らの芸術的遺書として描き上げた畢生の大作(1897年)その画題を私はときどき思いだします。
『我ら何処より来たるや
我ら何者や
我ら何処へ行くや』
この問い掛けは、人類の誕生以来、永遠の課題であり、また永遠に答のでないものなのかもしれません。
私もまたこのゴーギャンの問い掛けを同じく自らに突きつけ、もう随分長い間、考え続けてきました。もちろん、今現在みなさんに胸を張ってお伝えできる答えなど到底持ちえているわけではありません。
しかしながら、思いきって清水の舞台から飛び降り(職を辞し)、時間に縛られることもなく日々自らに面と向かう生活を何年も送っていますと、時々天からおもしろい囁きが聞こえてきたりします。
そのひとつに「原点に還れ」というものがあります。なんと自然で、またなんと大胆な言葉でしょうか。
では原点とは何か、私の想いを語りますと、それは愛であり、善であり、健康であり、幸福であり、そして繁栄です。
ところが最近の世の中を見渡してみますと、愛は薄れ、善は霞み、健康は崩れ、幸福は即物的になり、繁栄は歪んでいるように見えてなりません。
しかし、このように渾沌とした時代にも己を取り戻すことはできます。例えば足法。相手の幸せを願い、自らの力量を常に謙虚に受け止め、ひと足、ひと足、祈りを込めて踏み進む、その一心の積み重ねこそが、徳を積むことであり、人生を好転させる秘訣、私が例えて云う水の流れに添うことであり、すなわちそれこそが生きる原点なのではないかと思うのです。
日々の仕事にもまた同じことが云えます。奪うことを止め、分け合いましょう。謙虚になって感謝する気持ちを大切にしましょう。自らの繁栄だけでなく、相手の繁栄をも祈りましょう。幸福は、そんな態度に宿るのだと思います。
若かりし頃、私は勤め先の上司から「文句言われりゃ頭を下げろ。下げりゃ文句が通り越す」と諌められた記憶があります。そのとき私は相手が文句を云っている間、頭を下げてやり過ごすと思っていたのですが、実は違うということをこの歳になって気づきました。
頭を下げるということは感謝するということなのですね。歳を重ねると文句を云ってくれる人すらいなくなります。若いときに受けた諌言は、たとえその表現がどんなに辛辣であっても自らを鍛え育てるありがたい言葉なのですね。
江戸時代の念仏僧、休心房が「地限場限」という言葉をよく口にしたそうですが、これは、事に当たってそのひとつひとつを、一生に一度だけの機会として受け止め、心を込めて臨む、言わば一期一会の精神に相通じると云われています。
日常、私たちの周りで起こっていることを横柄に当り前の事として受け止めるのではなく、地限場限の精神で臨んでみましょう。
この人とはもう二度と会えないかもしれない。この諌言はもう二度と聞けないかもしれない。この食べ物はもう二度と口にできないかもしれない。こんな時間はもう二度と過ごせないかもしれない。
このような感謝の気持ちを積み重ねるうちに、ゴーギャンの抱いた画題が、ある日ポロッと解けたりするのかもしれません。
みなさま、今年一年、学びの機会をいただきありがとうございました。来年も共に天井知らずの幸せに向かって歩みましょう。どうぞ、よいお年をお迎えください。
マスコミを通じて私たちに届いてくる事件や事故の数は増加の一途を辿り、ひとくちに凶悪犯罪という表現では済まされない、人間の尊厳が問われるようなものが非常に多くなっています。
それでいながら、そんな凶悪な犯罪や悲惨な事件・事故も、悲しいかなアッというまに色褪せてしまい、聞かれてもすぐには思い出せないほど、加速度的に新たな出来事が次々に発生しています。
そんな最中、以前にもお話しましたが、ポール・ゴーギャンが死を決意し自らの芸術的遺書として描き上げた畢生の大作(1897年)その画題を私はときどき思いだします。
『我ら何処より来たるや
我ら何者や
我ら何処へ行くや』
この問い掛けは、人類の誕生以来、永遠の課題であり、また永遠に答のでないものなのかもしれません。
私もまたこのゴーギャンの問い掛けを同じく自らに突きつけ、もう随分長い間、考え続けてきました。もちろん、今現在みなさんに胸を張ってお伝えできる答えなど到底持ちえているわけではありません。
しかしながら、思いきって清水の舞台から飛び降り(職を辞し)、時間に縛られることもなく日々自らに面と向かう生活を何年も送っていますと、時々天からおもしろい囁きが聞こえてきたりします。
そのひとつに「原点に還れ」というものがあります。なんと自然で、またなんと大胆な言葉でしょうか。
では原点とは何か、私の想いを語りますと、それは愛であり、善であり、健康であり、幸福であり、そして繁栄です。
ところが最近の世の中を見渡してみますと、愛は薄れ、善は霞み、健康は崩れ、幸福は即物的になり、繁栄は歪んでいるように見えてなりません。
しかし、このように渾沌とした時代にも己を取り戻すことはできます。例えば足法。相手の幸せを願い、自らの力量を常に謙虚に受け止め、ひと足、ひと足、祈りを込めて踏み進む、その一心の積み重ねこそが、徳を積むことであり、人生を好転させる秘訣、私が例えて云う水の流れに添うことであり、すなわちそれこそが生きる原点なのではないかと思うのです。
日々の仕事にもまた同じことが云えます。奪うことを止め、分け合いましょう。謙虚になって感謝する気持ちを大切にしましょう。自らの繁栄だけでなく、相手の繁栄をも祈りましょう。幸福は、そんな態度に宿るのだと思います。
若かりし頃、私は勤め先の上司から「文句言われりゃ頭を下げろ。下げりゃ文句が通り越す」と諌められた記憶があります。そのとき私は相手が文句を云っている間、頭を下げてやり過ごすと思っていたのですが、実は違うということをこの歳になって気づきました。
頭を下げるということは感謝するということなのですね。歳を重ねると文句を云ってくれる人すらいなくなります。若いときに受けた諌言は、たとえその表現がどんなに辛辣であっても自らを鍛え育てるありがたい言葉なのですね。
江戸時代の念仏僧、休心房が「地限場限」という言葉をよく口にしたそうですが、これは、事に当たってそのひとつひとつを、一生に一度だけの機会として受け止め、心を込めて臨む、言わば一期一会の精神に相通じると云われています。
日常、私たちの周りで起こっていることを横柄に当り前の事として受け止めるのではなく、地限場限の精神で臨んでみましょう。
この人とはもう二度と会えないかもしれない。この諌言はもう二度と聞けないかもしれない。この食べ物はもう二度と口にできないかもしれない。こんな時間はもう二度と過ごせないかもしれない。
このような感謝の気持ちを積み重ねるうちに、ゴーギャンの抱いた画題が、ある日ポロッと解けたりするのかもしれません。
みなさま、今年一年、学びの機会をいただきありがとうございました。来年も共に天井知らずの幸せに向かって歩みましょう。どうぞ、よいお年をお迎えください。
2008年11月7日金曜日
許すという想い
もし 現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を人口100人の村に縮小するとしたらどうなるでしょう。()内の数値は無視して読む。
その村には、57(60)人のアジア人、21(12)人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人(15人は西半球/9人の南アメリカ人、5人の北アメリカ人、1人のオセアニア人)、8(13)人のアフリカ人がいます。
52(50)人が女性で、48(50)人が男性です。70(80)人が有色人種で、30(20)人が白人。70(67)人がキリスト教徒以外の人たちで、30(33)人がキリスト教徒。89人が異性愛者で、11人が同性愛者。
6(20)人が全世界の富の59(89)%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。
80(25)人は標準以下の居住環境(住宅)に住み、70(17)人が文字が読めない。50(13)人は栄養失調(栄養不良)で苦しみ、1人が瀕死の状態にあり(1人が1年以内に死に)、1人は今、生まれようとしている(2人が1年以内に生まれる)。
1(2)人は大学の教育を受け、そしてたった1(4)人がコンピューターを所有している。
もしこのように縮小された全体図から私たちの世界を見るなら、相手をあるがままに受け容れること、自分と違う人を理解すること、そしてそういう事実を知るための教育が、いかに必要かは火を見るより明らかです。(ここまでが前段)
また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。もしあなたが今朝、目覚めた時、病気でなく健康だと感じることができたなら、あなたは今週生き残ることのできないであろう100万人の人たちより恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や、獄門の苦悩、あるいは餓えの悲痛を一度も経験したことがないのなら、世界の5億人の人たちより恵まれています。
もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことが出来るなら、世界の30億の人たちより恵まれています。
もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場所があるなら、あなたはこの世界の75パーセントの人々より裕福です。
もし銀行に預金があり、お財布にもお金があり、家のどこかに小銭の入ったいれ物があるなら、あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの1人です。
もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なこと。
もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。
なぜならあなたのことを思ってこれを伝えている誰かがいて、その上、あなたは全く文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。
昔の人がこういいました。「わが身から出づるものはいづれわが身に戻り来る」、と。
お金に執着することなく 喜んで働きましょう。かつて一度も傷ついたことがないかのごとく人を愛しましょう。誰も見ていないかのごとく自由に踊りましょう。誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう
このメッセージを人に伝えてください、そしてその人の一日を照らしてください。
この文章の前段は、2001年10月27日の朝日新聞の「天声人語」に載った記事です。「このメールはJTBサンフランシスコ支店経由で日本のJTBに送られてきたものを紹介していただいた。その村にいる2人の日本人としても他の98人のことに無関心ではいられない」とありますが、この文章は、実はイワクつきでして、アメリカでチェーンメールとして流れたものですが、その作者は実のところ定かではないようです。
私が今回なぜこの文章をとりあげたかと申しますと、私が参加しているマクロビオテックのMLで流れ、今月私が取り上げようとしていたテーマが象徴的に表現されていたからです。また、この文章を批判的に考察し、文中の数値の根拠を公的資料に基づいて訂正している記述も発見できましたので、その双方の観点で興味を持ち、当用しました。
()の中の数値がオフィシャルな統計資料に基づいて訂正されたものです。数値の正確さを求めることは非常に大切ですが、この文章の場合、それ以上に人間としての生きる姿勢、在り方について読者の心に迫ってくるものがあります。
世界はいままたキナ臭い方向へ向かいつつあります。先の文章にデータ的な間違いがあったにせよ、今という時代に流され、多くの人に感動を与えたこの文章には象徴的な意味合いがあるような気がします。どうぞ、みなさんそれぞれがお読みになって感じてください。それ以上に私が申し付け加えることはありません。
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思いの種を蒔いて行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔いて人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を刈り取る。⋯という格言をかつて目にしたことがあります。この格言をよくよく見てみると、実は表に現われていない大事なメッセージがあることに気づきます。
ここにある「思い」とは、善としての行動、明るく前向きな行動を意図しており、その思いを行動に移して習慣にし、そこから人格を高めてよい人生を勝ちえよう、というロジックが見えます。
しかし、“表あるものに裏あり、表大なれば裏もまた大なり”なのです。忘れてならないことは、善としての思いの逆、つまり「悪い思い」というのも、またひとつの確かな思いであり、結果的に同じ原理が働くわけです。
誰かを恨んだりねた嫉んだり、不幸を望んだりしたとします。するとどうなるでしょうか。その思いは、意図するしないに関わらず、なんらかの嫌がらせや、相手に不利益を与える言動や行動につながります。それが習慣になると、確実に心はすさ荒み、他人からの信頼や人望も少しずつなくなります。そんな人が仮にいくら経済的に裕福であったとしても、豊かな人生とはとても云えませんね。
冒頭の文中に「わが身から出づるものはいづれわが身に戻り来る」という表現がありました。この意味合いに心を震わせた方は、断言しますが、明日からの人間関係が大きく変化(好転)します。
貴方をおとし貶めようとする人、すべて「その人の身から出づるものはいづれその人の身に戻り来る」のです。
そう信じると、あなたは相手をただ静かに見つめ、そして「許す」という思いを抱くことができるはずです。
しかしながら、なぜ許せるの! 私には許すなんてとても簡単にはできない、という声をよく耳にします。
しかし、法則を理解できれば、決して難しいことではありまん。私たちはみな我欲に振り回されて生きています。落ち度のない人など一人もいません。
私たちはこれまで、そんな自分の落ち度(種蒔き)の結果(実)を、最後は全て背負う(刈り取り)ことになったはずです。逆もまた然りで⋯。
つまり、私たちは誰か他人と対峙しているのではなく、常に自らの宇宙意識と向き合っているのです。相手に対する思いは、やがて自らに同等に返ることになります。昔から、相手恨めば穴二つと云いますが、相手褒めれば穴二つでもあるわけで、この法則には、いい結果であれ、悪い結果であれ、何人にも拒否権は一切ありません。まさにそれが宇宙の法則たる所以です。
私たちの未来は未定、運命も定かではありません。明日の出来事は私たちの潜在意識の中にあります。私たちの日常的な心の在り方が運命を左右するのです。
人はどんな種を蒔こうと、その蒔いたものを刈り取るという事実。許すという思いの種を蒔くと、どんな結果を刈り取ることになるか、既にあなたは分かっているはずです。それはもちろん、幸せの実、健康の実以外の何ものでもありません。
その村には、57(60)人のアジア人、21(12)人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人(15人は西半球/9人の南アメリカ人、5人の北アメリカ人、1人のオセアニア人)、8(13)人のアフリカ人がいます。
52(50)人が女性で、48(50)人が男性です。70(80)人が有色人種で、30(20)人が白人。70(67)人がキリスト教徒以外の人たちで、30(33)人がキリスト教徒。89人が異性愛者で、11人が同性愛者。
6(20)人が全世界の富の59(89)%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。
80(25)人は標準以下の居住環境(住宅)に住み、70(17)人が文字が読めない。50(13)人は栄養失調(栄養不良)で苦しみ、1人が瀕死の状態にあり(1人が1年以内に死に)、1人は今、生まれようとしている(2人が1年以内に生まれる)。
1(2)人は大学の教育を受け、そしてたった1(4)人がコンピューターを所有している。
もしこのように縮小された全体図から私たちの世界を見るなら、相手をあるがままに受け容れること、自分と違う人を理解すること、そしてそういう事実を知るための教育が、いかに必要かは火を見るより明らかです。(ここまでが前段)
また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。もしあなたが今朝、目覚めた時、病気でなく健康だと感じることができたなら、あなたは今週生き残ることのできないであろう100万人の人たちより恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や、獄門の苦悩、あるいは餓えの悲痛を一度も経験したことがないのなら、世界の5億人の人たちより恵まれています。
もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことが出来るなら、世界の30億の人たちより恵まれています。
もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場所があるなら、あなたはこの世界の75パーセントの人々より裕福です。
もし銀行に預金があり、お財布にもお金があり、家のどこかに小銭の入ったいれ物があるなら、あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの1人です。
もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なこと。
もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。
なぜならあなたのことを思ってこれを伝えている誰かがいて、その上、あなたは全く文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。
昔の人がこういいました。「わが身から出づるものはいづれわが身に戻り来る」、と。
お金に執着することなく 喜んで働きましょう。かつて一度も傷ついたことがないかのごとく人を愛しましょう。誰も見ていないかのごとく自由に踊りましょう。誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう
このメッセージを人に伝えてください、そしてその人の一日を照らしてください。
この文章の前段は、2001年10月27日の朝日新聞の「天声人語」に載った記事です。「このメールはJTBサンフランシスコ支店経由で日本のJTBに送られてきたものを紹介していただいた。その村にいる2人の日本人としても他の98人のことに無関心ではいられない」とありますが、この文章は、実はイワクつきでして、アメリカでチェーンメールとして流れたものですが、その作者は実のところ定かではないようです。
私が今回なぜこの文章をとりあげたかと申しますと、私が参加しているマクロビオテックのMLで流れ、今月私が取り上げようとしていたテーマが象徴的に表現されていたからです。また、この文章を批判的に考察し、文中の数値の根拠を公的資料に基づいて訂正している記述も発見できましたので、その双方の観点で興味を持ち、当用しました。
()の中の数値がオフィシャルな統計資料に基づいて訂正されたものです。数値の正確さを求めることは非常に大切ですが、この文章の場合、それ以上に人間としての生きる姿勢、在り方について読者の心に迫ってくるものがあります。
世界はいままたキナ臭い方向へ向かいつつあります。先の文章にデータ的な間違いがあったにせよ、今という時代に流され、多くの人に感動を与えたこの文章には象徴的な意味合いがあるような気がします。どうぞ、みなさんそれぞれがお読みになって感じてください。それ以上に私が申し付け加えることはありません。
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思いの種を蒔いて行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔いて人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を刈り取る。⋯という格言をかつて目にしたことがあります。この格言をよくよく見てみると、実は表に現われていない大事なメッセージがあることに気づきます。
ここにある「思い」とは、善としての行動、明るく前向きな行動を意図しており、その思いを行動に移して習慣にし、そこから人格を高めてよい人生を勝ちえよう、というロジックが見えます。
しかし、“表あるものに裏あり、表大なれば裏もまた大なり”なのです。忘れてならないことは、善としての思いの逆、つまり「悪い思い」というのも、またひとつの確かな思いであり、結果的に同じ原理が働くわけです。
誰かを恨んだりねた嫉んだり、不幸を望んだりしたとします。するとどうなるでしょうか。その思いは、意図するしないに関わらず、なんらかの嫌がらせや、相手に不利益を与える言動や行動につながります。それが習慣になると、確実に心はすさ荒み、他人からの信頼や人望も少しずつなくなります。そんな人が仮にいくら経済的に裕福であったとしても、豊かな人生とはとても云えませんね。
冒頭の文中に「わが身から出づるものはいづれわが身に戻り来る」という表現がありました。この意味合いに心を震わせた方は、断言しますが、明日からの人間関係が大きく変化(好転)します。
貴方をおとし貶めようとする人、すべて「その人の身から出づるものはいづれその人の身に戻り来る」のです。
そう信じると、あなたは相手をただ静かに見つめ、そして「許す」という思いを抱くことができるはずです。
しかしながら、なぜ許せるの! 私には許すなんてとても簡単にはできない、という声をよく耳にします。
しかし、法則を理解できれば、決して難しいことではありまん。私たちはみな我欲に振り回されて生きています。落ち度のない人など一人もいません。
私たちはこれまで、そんな自分の落ち度(種蒔き)の結果(実)を、最後は全て背負う(刈り取り)ことになったはずです。逆もまた然りで⋯。
つまり、私たちは誰か他人と対峙しているのではなく、常に自らの宇宙意識と向き合っているのです。相手に対する思いは、やがて自らに同等に返ることになります。昔から、相手恨めば穴二つと云いますが、相手褒めれば穴二つでもあるわけで、この法則には、いい結果であれ、悪い結果であれ、何人にも拒否権は一切ありません。まさにそれが宇宙の法則たる所以です。
私たちの未来は未定、運命も定かではありません。明日の出来事は私たちの潜在意識の中にあります。私たちの日常的な心の在り方が運命を左右するのです。
人はどんな種を蒔こうと、その蒔いたものを刈り取るという事実。許すという思いの種を蒔くと、どんな結果を刈り取ることになるか、既にあなたは分かっているはずです。それはもちろん、幸せの実、健康の実以外の何ものでもありません。
真の勝者
森羅万象すべからく、つくられたものには設計図がある、というのが私の考え方です。だから、壊れた時計を時計職人は直すことができるのです。こうした考え方は、私たち人間にも同様に適用できます。
私たち人間をつくったのが誰か、残念ながらその正体を知る者はこの世に一人も存在しません。しかし、私たちは現に生存しており、その意味するところは、創造した知性もまた確かに“ある”ということです。
つまり、その知性は、人間の仕組みをイメージし、設計したのです。であれば当然のごとく壊れた、言い換えるならば、病気になった私たちを治(直)す方法も解っていることになります。そして、その設計図は、神性を備えた人間の「潜在意識」に記録されたのだと、諸説と経験から私は推察しています。
つまり、良くも悪くも私たちの潜在意識は私たちの思った通り、命令した通りの現実を提供しているということになります。ならば、恐れを捨てて、普段から、善と健康と富を潜在意識に求めればいい。私たちが潜在意識の力を信じて心から祈るとき、俗にいう奇跡は現実のものとなるのだと、私は考えています。いや、直感的に感じ取っています。
潜在意識という言葉を知らない人は、おそらくここにはいないでしょう。それどころか、とても詳しく知っている方ばかりかもしれません。しかし驚かされることは、知っているだけ、記憶にあるだけ、という人の多さです。つまり、認知はしていても受け容れておらず、常識という色眼鏡が潜在意識に対して「不信」という期待を常に刷込んでしまっているのです。
私が潜在意識に強く関心を持ち始めたのは、今から5年程前のことです。自分の思っていることが不思議と現実になっていくような気がして、客観的に自分の思考と、現実に起こることを見つめ始めました。その結果、言葉では表現しきれない関係性を感じ取り、それ以来意識的に時間と場を定めて想いを選ぶようにしたのです。当初は、まだまだコントロールが下手でしたが、それでも極めて興味深い結果を得ることができました。
世界中の権威ある精神科医や心理学者、はたまた工学系の科学者までが潜在意識は活用できることを公に発表しています。私はそれを実践的、経験則的に語っているに過ぎません。確かにそういうことはあるのだと。
私が長年勤めた会社を辞め、新たな人生を歩き始めた切っ掛けも、当然のごとく、この潜在意識が大きく関わっています。母の死後(14年前)、仏縁を頂いて頻繁に瞑想するようになり、その瞑想が私の潜在意識の扉を開いたのかもしれません。あるときから、子供の頃の夏休みの光景が繰返し脳裏を過るようになりました。また、あるときは、定年を迎えて寂しく肩を落として一人座っている自分の未来の姿が見えたりもしました。そして、脳裏に、こんなことをするために生まれてきたのか、という呼びかけが去来するようになって、その後少しずつ心の整理ができたのです。
いま私は、心苦しいストレスをあまり感じていません。当然のごとく、確固とした収入や、肩書きなどはすべて失いました。しかし、勇気をもってコップの水を捨てたとき、確かに新しい水が注がれたのです。
いま、ご縁をいただき足法に取り組み、多くの人々と接しながら、そこはかとない幸せを感じています。その理由は、ただ単に当塾に参加される受講者数が増えたからではなく、好きな足法を実践できる場所を得、そして、同じ気持ちを共有できる人々と立場を超えて楽しい時間を過ごせるからです。
私たちはみな幸せを求めて人生を彷徨います。しかし、常にどこか幸せではない自分に不満を持って生きています。そんな方に私は云いたいのです。あなたが真に幸せになりたいのなら、無邪気にワクワクすることは何かを見つけたほうがいいと。そして、そのワクワクを仕事、趣味の隔てなく思いっきりやることです。そんなあなたを潜在意識が感知したとき、あなたの人生が幸せにならないはずはないのです。そして、その姿こそが、私には人生の「真の勝者」に見えるのです。
付け加えますが、よく末期の癌が治ったという人がいますが、こういう人は私から見て潜在意識の扉が開いた人だと思います。あらゆる概念から解放されて達観に至ったとき、本来消えるはずのない癌細胞すら消えてしまうのだと、これもまた直感的に思えてならないのです。
私たち人間をつくったのが誰か、残念ながらその正体を知る者はこの世に一人も存在しません。しかし、私たちは現に生存しており、その意味するところは、創造した知性もまた確かに“ある”ということです。
つまり、その知性は、人間の仕組みをイメージし、設計したのです。であれば当然のごとく壊れた、言い換えるならば、病気になった私たちを治(直)す方法も解っていることになります。そして、その設計図は、神性を備えた人間の「潜在意識」に記録されたのだと、諸説と経験から私は推察しています。
つまり、良くも悪くも私たちの潜在意識は私たちの思った通り、命令した通りの現実を提供しているということになります。ならば、恐れを捨てて、普段から、善と健康と富を潜在意識に求めればいい。私たちが潜在意識の力を信じて心から祈るとき、俗にいう奇跡は現実のものとなるのだと、私は考えています。いや、直感的に感じ取っています。
潜在意識という言葉を知らない人は、おそらくここにはいないでしょう。それどころか、とても詳しく知っている方ばかりかもしれません。しかし驚かされることは、知っているだけ、記憶にあるだけ、という人の多さです。つまり、認知はしていても受け容れておらず、常識という色眼鏡が潜在意識に対して「不信」という期待を常に刷込んでしまっているのです。
私が潜在意識に強く関心を持ち始めたのは、今から5年程前のことです。自分の思っていることが不思議と現実になっていくような気がして、客観的に自分の思考と、現実に起こることを見つめ始めました。その結果、言葉では表現しきれない関係性を感じ取り、それ以来意識的に時間と場を定めて想いを選ぶようにしたのです。当初は、まだまだコントロールが下手でしたが、それでも極めて興味深い結果を得ることができました。
世界中の権威ある精神科医や心理学者、はたまた工学系の科学者までが潜在意識は活用できることを公に発表しています。私はそれを実践的、経験則的に語っているに過ぎません。確かにそういうことはあるのだと。
私が長年勤めた会社を辞め、新たな人生を歩き始めた切っ掛けも、当然のごとく、この潜在意識が大きく関わっています。母の死後(14年前)、仏縁を頂いて頻繁に瞑想するようになり、その瞑想が私の潜在意識の扉を開いたのかもしれません。あるときから、子供の頃の夏休みの光景が繰返し脳裏を過るようになりました。また、あるときは、定年を迎えて寂しく肩を落として一人座っている自分の未来の姿が見えたりもしました。そして、脳裏に、こんなことをするために生まれてきたのか、という呼びかけが去来するようになって、その後少しずつ心の整理ができたのです。
いま私は、心苦しいストレスをあまり感じていません。当然のごとく、確固とした収入や、肩書きなどはすべて失いました。しかし、勇気をもってコップの水を捨てたとき、確かに新しい水が注がれたのです。
いま、ご縁をいただき足法に取り組み、多くの人々と接しながら、そこはかとない幸せを感じています。その理由は、ただ単に当塾に参加される受講者数が増えたからではなく、好きな足法を実践できる場所を得、そして、同じ気持ちを共有できる人々と立場を超えて楽しい時間を過ごせるからです。
私たちはみな幸せを求めて人生を彷徨います。しかし、常にどこか幸せではない自分に不満を持って生きています。そんな方に私は云いたいのです。あなたが真に幸せになりたいのなら、無邪気にワクワクすることは何かを見つけたほうがいいと。そして、そのワクワクを仕事、趣味の隔てなく思いっきりやることです。そんなあなたを潜在意識が感知したとき、あなたの人生が幸せにならないはずはないのです。そして、その姿こそが、私には人生の「真の勝者」に見えるのです。
付け加えますが、よく末期の癌が治ったという人がいますが、こういう人は私から見て潜在意識の扉が開いた人だと思います。あらゆる概念から解放されて達観に至ったとき、本来消えるはずのない癌細胞すら消えてしまうのだと、これもまた直感的に思えてならないのです。
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