2009年7月26日日曜日

すでにある幸せ

2002年も残すところあと僅かとなりました。みなさんはこの一年をどのようにお過ごしになりましたか。満足のいく一年でしたでしょうか、それとも後悔を残した一年でしたでしょうか。

私にとりましては、悲喜交々いろいろありましたが、日々を楽しくという普段の思いを大切にできた一年だったと感じています。もちろん思うようにならないこともありましたが、そんな時にも、次につながるヒントが得られたと喜んでいます。

ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんの著書「愛をこめて生きる」のなかに次のよう一節があります。

『このかけがいのない一日を、不平や不満で埋めるのではなく、ありがたいものとして生きるとき、そこには、ささやかな幸せが生まれてくる。そのためには、自分の身のまわりに既にある“有り難いもの”に気づいて生きたい。日の出にも日の入りにも、中天にかかる月にも星空にも、さえずる小鳥にも一本の草花にも、感謝して生きたいものである。何十年に一度しか現われない星には大騒ぎしても、毎夜またたく星空には感激するどころか、いっこうに見上げようともしない、そんな心に私たちはいつしかなってしまった』

私のまわりには不平・不満を抱える人たちがたくさんいます。かく言う私もかつてはその一人でしたし、今でも時として頭を過ることがありますが、その留まる時間は以前に比べて驚くほど短くなりました。人間の一生を考えたとき、そのようなものに関わっている時間がもったいないと思うからです。

私はいま置かれている自らの立場の関係で、いろいろな方とお話する機会があります。病気の相談だけでなく、他の悩みをお聞きすることもあります。そのひとつひとつが各人にとっては切実であり、改善を心から願っていることが伝わってきます。

そうした方々に対して、私はただただ拝聴することしかできないのですが、ひとつだけ必ず申し上げることがあります。それは「問題の原因を相手だけに押し付けていては答えは出ない」ということです。

その反応には概ね二種類あり、「そんなこと分かってる」というものと、「え、何で私がっ!」というものです。この二つの反応、一見異なっているように見えますが、自分自身を問題の主人公に据えていないということに於て、実は同じなのです。

世の中には一個人の責任とはまったく無関係な出来事もあります。しかし、私が目にするケースの殆どは「私と誰か、私と何か」の関係から生まれた問題なのです。

問題の原因の主人公を自分にすることは決して容易なことではありません。しかし、相手にだけ押し付けていても解決は得られません。私にも非はあるかもしれない、でも相手の方がもっと悪いと思えるときにこそ、まず自分自身を省み、その中から僅かでも自らの至らなさを発見できたとき、その私は本当の意味で問題解決の糸口を発見できたのだと思いますし、“有り難いもの”に気付く心を宿す準備ができたのだと思います。

渡辺さんはこう続けています——『盗っ人にも、火事にも奪われ失われる心配のない宝、他人のそれと比べる必要のない自分固有の宝、平凡な生活の中で光彩を放つ宝、それは、当り前を輝いて見える、自分の“まなざし”であり、すべてを有り難いものとしていただく自分の“心”であろう。人間の幸せは、結局、その人の生活の中に愛するものがあるか否か、宝とするものがあるかどうかにかかっていると言っても過言ではない。真の愛とは、誰もが愛せるものを愛することではなくて、誰からも顧みられない、価値なきかに思えるものに注がれる愛である』と。

私の父が亡くなる一年ほど前、私はこんな質問をしました。「お父さん、ここまで生きてきて、いまこうした生活の中でどんな心境ですか」と。この質問にたいして父は、「雨風しのげて、三食いただけて、なんの不満があるか」という短い言葉を吐きながら、その目がとても澄んでいたのをよく覚えています。

会社という組織を飛び出し足掛け5年になろとするいま、両親から数えきれないほど与えていただいた示唆のなかでも、この父の言葉は、とりわけ大きな輝を放ちながらいまの私に迫ってきます。

傷つき、苦しみ、泣きながら、その中に捨てる勇気を持てたとき、私たちは初めて“有り難いもの”“すでにある幸せ”に心が向けられるのかもしれません。

2003年、みなさんが“すでにある幸せ”に包まれますよう、心よりお祈り致します。今年一年、ありがとうございました。

2002年12月

主に明け渡したとき、病がいやされた

横浜の延川さんは、太平洋戦争中、ニューギニヤ西部のマノクワリにいた。多くの兵士が、激戦と食糧不足、また過労に倒れ、マラリヤの高熱に苦しんだ。

延川さんも、この苦しみの中で、それまで持っていた信仰を捨てた。彼は思った。「神もへちまもあるものか。どうにでもなれ。物質こそすべてだ。米軍を見ろ。あれだけの物量があるからこそ勝てるのだ。これからは唯物主義だ」。

それまで真面目だった彼なのに、以来、部隊の食糧を盗んだり、酒・タバコをやるようになった。みんなから悪く言われるようになった。しかし彼は信仰放棄後、ますます健康を害し、悪性の吹き出物が全身にできるようになった。熱帯潰瘍と言われるものである。また、彼のマラリヤは慢性になった。二週間たって、彼の命は今日か明日までと思われるほどになっていた。

その病床で、彼の魂の奥底に「絶えず祈れ」との御言葉が響いた。彼はハッと我にかえり、息の続く限り祈る決心をした。体力は消耗の極に達している。しかし不思議に、祈ることだけはできた。今までの不信仰、神への忘恩、そのほか数々の自分の罪が、ありありと心の中に示された。彼は祈った。「神よ、赦したまえ。もし生きることが許されるなら、今度こそ、本当にあなたのために生きます」。

彼の心の中に、恵み深い神が宿られた。その時からのことである。彼は相次いで排尿をし、それとともに全身の吹き出物がひき始めた。 一夜にして、吹き出物は完全になくなってしまった。夜明けとともに、皆が驚きの目で見つめたのは言うまでもない。それから二カ月ほどで、マラリヤも完全に癒された。医者は言った。「まったく奇跡だ」。
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この文章はWeb中の「人生成功の秘訣」の中で紹介されたものです。私たちはこのような例をこれまでに耳にしたことがない人の方が少ないと思います。しかし、実感できる人もまた少ないのではないでしょうか。医者が言ったように「奇跡だ」で終わってしまいます。しかし、それは間違いです。私たちの思いは『神=大いなる力』と繋がっています。

私自身が27才のある秋の夜に、突然天空から降り注いできた光の矢によって救われた経験があります。また、29才の時には就寝したと同時「母が死ぬ」という天の声を聞きました。因に私は無宗教でしたし、また宗教や信仰に対する造詣もまったくありませんでした。しかし救われたのです。

両親の死後、私は日々祈るようになりました。にも関わらず、光は天空から降り注いではきません。その代わり、日々をよりよく生きるための直感力が向上しました。仕事を捨てたら足法がやってきたこともそのひとつなのでしょう。

祈り(=想い)は行動を生み、行動が習慣となり、習慣が人格を育て、人格が人生を実らせてくれます。人間、最後は祈りだ、ではなく、その究極の行動を日常にしましょう。そこに絶大な力が宿るのです。

2002年11月

チャンスの女神

みなさんよくご存知の表現に「チャンスの女神に後ろ髪はない」というのがあります。チャンスって滅多に来ないのだから、目の前に来たらしっかり掴まえないと、通り過ぎた後に思い直して掴もうとしても、掴む後ろ髪はないと云うものですが、果たしてこれは本当でしょうか。

しかもこの表現、云う側は解りやすいと思って用いるのでしょうが、よくよく考えてみると、実は解ったようで解らない表現です。さらに脅迫的で、失敗は許されないぞッ、という恐さも感じます。にも関わらず、意外と解った気でいる人が多くはないでしょうか。

チャンスって本当に一度逃がしてしまったらもう二度と訪れないものなのでしょうか? これまでの人生で、あなたはそうでしたか? もしもこの人と結婚していなかったら⋯、あの時あの人の云うことを聞いていたら⋯、あの時あれをしていたら⋯etc、こんな苦労は、失敗はしなくて済んだかもしれない、と考えれば切りがないわけですが、私が思うに、その後もきっと何度も同じようなチャンスはあったはずなのです。と言うより、私たちはチャンスの中に埋まって生きていると思えてなりません。ただ、そのチャンスに気付かないだけではないかと。

白隠禅師の座禅和讃に「⋯衆生近きを知らずして、遠くを求むるはかなさよ。例えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず⋯」という一節があります。

私たちそのものが既に仏であるのに、そのことには誰も気が付かない。それはまるで、水の中にいて喉が渇いたと文句を言ったり、裕福な家に生まれたのに家を飛び出し貧乏に喘ぐ姿に等しい、という意味です。

常々、私はこの和讃を読みながら、いろんなチャンスの中に埋もれているのに、強く手を伸ばせば届くのに、いつも自分は不運だとか、ちっとも恵まれないとか、悪いことばかり起こるとか、そんな愚痴や文句ばかり言っている私たちの姿そのものを見る思いがしてならないのです。
私は近頃、誰彼なしに云うこと⋯。それは、既成概念を取っ払って、素の自分で感じ、その感じを通して世の中を見渡してみようと。世間体や常識と云ったものすべてを一度頭の中から追い出して、そして改めて自分の周りを見渡してみようと。

そんなこと難しくてできない、という人が大勢いますが、その難しいということもまた既成概念なんですね。

そこで私が実践している方法は、“自分”が何をしたら楽しいか、“自分”はどんなことにウキウキ・ワクワクするか、今現在、自分を取り巻くすべての条件を無視して心の赴くままに考えることです。ああだから出来ない、こうだから無理、そんなことは取り敢ず横に置いておいて、どんどんイメージを膨らませてみるのです。子供の頃の夢や希望に日々満ち溢れていたあの時の自分に帰って、あれこれ好きに思いを巡らします。

人間は、良くも悪くも同じようなことが3回起こるとパターン化され、感情・思考・行動に影響し、自らの人生脚本を作っていくと云われています。とくに悪いイメージはより強く潜在意識に働き掛けると云われています。
例えば両親の喧嘩の原因が自分だという思いが子供心にパターン化されますと、いつしか自分なんかいなくなればいいんだとか、自分は誰からも好かれていないんだ、という自分を作り上げます。本当はそうではないのに、一度潜在意識に擦り込まれたネガティヴパターンは運命そのものへ影響します。

恐いですね。だからこそ、私たちは既成概念を捨てて、素の自分を取り戻すことに意味があるのです。損か得かで動くことをなるべく少なくし、ウキウキ、ワクワク“自分”の心の欲する方向へ自然に一歩を踏み出してみる。するとある時、これまでは目に入らなかったステージの幕が突然上がり、そこにはチャンスの女神に手を携えられた自分の、いろんな可能性に満ち溢れ、人生を活き活きと生きている姿が映し出されているはずです。

チャンスは無限にあります。何度も訪れます。ところが、自我や既成概念に雁字搦めになって気付けないとしたら、一度限りの人生で、余りにも惜しいとは思いませんか。

2002年9月

2009年5月5日火曜日

なせば成る

なせば成る、なさねば成らぬ何事も、ナセルはアラブの大統領、なんて古い漫談のネタがありましたが、この歌を正しく表記しますと次のようになります。『なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の、なさぬなりけり』。

これは江戸時代に作られたものと言われており、その後、今日までずっと謳い継がれてきたしんげん箴言(戒め、教訓の意)です。

この歌が江戸時代に作られたと知って私が改めて思ったことは、太古より人間の在り方はまったく変わらないということです。

むしろ昔の方が、私たち人間は、より本質的な考え方や生き方をしていたからこそ、このような歌が生まれたのだろうと思うのです。以前、皆さんにご紹介した、鴨長明の方丈記もまた然りですね。

この歌のキーワードは「なす」。しかし、「なす」という行為の前に私たちは「思い」をもちます。その思いがあって初めて具体的な行為に表すことができるのです。

これも以前に私が皆さんにお伝えしたことですが、『思いの種を蒔いて行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔いて人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を借りとる』という西洋の格言。やはりここにも「思い」と行動の関係が謳われています。

私たちの行動はすべて「思い」の上に成り立っていることが分かります。ここで記憶術のオーソリティ、七田まこと眞氏が彼の研究を通して次のような興味深い発言をされていますのでご紹介します。

「右能の開き方はいろいろありますが、深い学習回路を開く方法にしかんあんしょう只管暗唱があります。1日に何十回となく声を出して暗唱を続けると開けるという頭の秘密があるのです。明治〜大正の頃、千葉県に山崎べんね弁栄という僧侶がいました。彼は本をパラパラと二三度めくっただけで内容をすべて理解し記憶した人でした。彼が21〜2才の頃、朝から晩まで念仏三昧に明け暮れました。そこから、人知れぬ不思議な能力が開けたといいます。ある時、長年どうしても治らない難病の婦人から治療法を聞かれたとき、一心に念仏を唱えなさいと教えました。すると、婦人の難病は数日で消えました。念仏には深い学習回路が開くだけでなく、深層の不思議な治癒力を引きだす力もあるのです」

ここで言う念仏とは、ひとつのワードや文章を意味し、それを無心に繰返し唱えること、つまり潜在意識に植え付けることによって、思いが現実のものになってしまうことを実例を挙げて氏は説明しています。

瞑想法のひとつに真言を唱えながら行うものがありますが、これもまた私たちの深層心理に潜む力を引き出そうとする手法なんですね。

私たちが「成す」ために、まず「なさ」なければならないわけですが、そこには「思い」という大切な要素があることを是非再確認してください。「氣が出た」と思って手をかざすと氣はでると私は言いました。しかし、その思いを疑ってかかる人はいつまでも氣はでません。あなたが成したいことは、まさに、なせば成るのですから、そのためにも、日々よい思いを抱いて、実現に向かって「なし」てください。

2002年5月

出逢い

足法を通じて、今日ここに、このように見知らぬ人たちが集っていますが、この広い日本の中で、いや世界の中で、因りによって集ったことは、果たして単なる偶然でしょうか。私はそういう考え方には立っていません。私と皆さんは、大いなる力、偉大なる叡智の導きによって、ここに出逢うことになったのだと思えてならないのです。

私もまた足法をみなさんにご指導させていただくまでに、必然的な出逢いが幾つもあり、その上で今日という日を迎えています。

これは私にとりましても、また皆さんにとりましても好機であるわけでして、この好機を明日からの暮らしの中で活かすことができるか否かが一人ひとりにとっては大変重要な意味をもつことになります。

かねがね私が皆さんに申し上げてきたことは、私は私の役目としてみなさんに足法をご指導しているにすぎないということです。まずなによりも、誰よりも私は足法という整体法が好きで、またその効果を高く評価し、惹かれ、追求・研究・実践している人間なのです。

これまで私は足法を通していろいろな人と出逢ってきましたが、中にはこんなタイプの人がいます。せっかく足法を学ぶ機会を得たにも関わらず、ちっとも楽しそうでなく、逆に不愉快にやっておられる。顏には、こんなことをやって果たしてどれほどの効果があるのやら??? と書いてある。また、ずっと足法を習っておられる方で、こんな症状なんだけれどもちっとも良くならない。何か良い方法はないか。

そうした人々に触れるたびに、人間の猜疑心の深さと依存心の強さに愕然とします。そのような方は、何に相対しても、まるで賭けでもするがごとく、「ほんとうに効くの?」というような姿勢で臨みます。

このような方たちは、多くの場合、あちこちの健康法に首を突っ込んでは効果のなさを相手のせいにし、自分の不幸を嘆き落胆するという共通点を見て取ることができます。

身体が痛い、しんどい、死んでしまいたいほど苦しい、そうした状況にある人は、もう藁をも掴む気持ちで治療者や治療法を追い求めているわけです。その気持ちはよく分かりますが、だからこそ、ひとつひとつの出逢いを疎かにするのではなく、そこには深遠な意味があり、天が与えてくれた好機なのだと受け止め、そして信じて継続していただきたいのです。禅病に罹ったかの名僧・白隠禅師ですら、その克服には年月を要したのです。

焦らず、怖れず、怒らずに、ひと足・ひと足、喜びと希望と祈りを込めて踏み、そして踏まれていただきたいと願っています。そのような姿勢は、間違いなく私たちに宿る自然治癒力を高め、細胞に活力を与えてくれます。健康は自らが勝ち得るもの、という考え方の根本がここにあると私は考えています。

2002年4月

2009年4月28日火曜日

眼横鼻直

私たちがこの世にオギャーと生まれて以来、必ずついて回るものが人間関係である。親子の関係から友達、学校、社会と、徐々にその枠は広がっていく。

そして、多くの人が多かれ少なかれ人間関係に悩み、苦しみ、自信を失い、会社を辞めたり、離婚したり、最悪の場合は自らの命を断ったりすることもある。

他人との関係を断つために、人里離れた山中で一人で暮らすことも考えられなくはないが、そんな人が増えれば、これまたその山中での人間関係が新たに生まれる。笑ってられない話である。

つまり、生きている限り人間関係だけは私たちが断って断つことのできないもののひとつなのだ。

ならば、むしろ人間関係を逃れるというような難しいことを考えるよりも、今いる中での上手な生き方を求めたほうがより生産的だと私は思う。

いろいろな記述を読んでみても、また、その道の専門家の指南に耳を傾けてみても、さらには昔からの「バカは風邪を引かない」手の比喩のように、神経の太い人、物事に大らかな人、小さなことにクヨクヨしない人は病気に罹りにくいと言われている。

それはなぜか?上記のタイプの人にはある共通点がある。それは、自分に対する悪いイメージを持ちにくいということだ。さてここで、私が皆さんとの対話の中でよく口にする“イメージ”という言葉を思い出していただきたい。このイメージが実は私たちの人生を大きく左右する鍵になっているのだ。

被害妄想気味の人、懐疑心や猜疑心、さらには嫉妬心の強い人は、知らぬ間に不幸な自分の姿をイメージしている。いいことが目の前に起こっていても、その次には悪いことが起こるのではないかと心配している。心配は期待という心理状態でもあるのだ。大らかで楽観的な人は、いま悪いことが起こっていても、いつかは終わる、次はきっといいことがあるはずだ、これも勉強、といった明るい発想になることが多い。そして、その結果どおりの自分を実現しているのが私たちなのだ。

名前は忘れたが、確かある数学者か宇宙物理学者が言った言葉だと記憶している。「人の一生(喜び、悲しみ、幸不幸)を積分すると、みな同じ」 さらに、「夜空を見上げよう。そこには宇宙から見た公平さがある。空の星のむこうで、同じようにこちらを見ているかもしれない。向こうから見れば、今私が見ている星と同じように、私たちの地球を見ているのだ。そうやって眺めれば、いかにこの地上で行われている争いが無益で無意味なものかがわかるだろう」

積分の意味を一言に集約するのは難しいが、とりあえず一定の公式から割り出された面積(=量)としておこう。上記の学者の表現は、この地球に生を受けた私たちが忘れていた摂理を示しているとは思えないだろうか。そしてまた、地球の向こうから私たちと同じような生物が、こちらを見ているかもしれないと考えたら、確かに生命ある“人間”として馬鹿げた戦いや争いなどに時間を割いている場合ではないと思う。

私たちは選んで(選ばれてという見方もできるが)この世に生まれた。そして、いま私たちの目の前で起こっていることは、すべて私たちが成長するための気づきなのだ。そう考えて日々の暮らしに取り組むと、自らの心の在り方に少しは新たな想いが生まれるのではないだろうか。

人間は誰しも手前勝手だ。自ら気づかぬままに自分中心の発想や行動を繰り返してる。そんな自分に気づく機会を与えてくれているのが人間関係なのだ。自分以外の人間の醜い行動は、単にその人のものではなく、そのことを通じて自らの内に潜む醜さを学ぶ手本なのだ。あなたがいまムカツク、腹が立つ、許せない人を思いだしてみてほしい。そしてその人との関係が生まれる以前の自分も同時に思いだしてみよう。その二人の自分を比較したとき、確実に後の自分の方が成長しているとは思わないだろうか。

人間関係の極意は、相手の評価を怖れぬことだと私は考えている。なぜなら、あらゆる摩擦は、必ず人間としての経験値=人間力を向上させてくれるからだ。

大切なことは、この世に生まれた以上、対人関係は自らを向上・成長させるための義務教育の場であると悟り、不幸な人間関係をもプラスに受けとめてそこから学んで初めて次の豊かな人間関係が生まれるのだと達観することだ。それが仏教で云う『眼横鼻直』、つまり、あるがままの自分になれることだと私は思う。

2002年3月

波と海

人前では強気でいたり、前向きだったり、とても明るく振る舞っているのに、本当は自分に自信がなく、劣等感にさいな苛まれている、そんな人が実に多い。もっと自分を褒めてあげよう、もっと自分を認めてあげようと、頭では解っていても、潜在意識下では自分に自信が持てず、勝手に自らの限界を決めてしまっている。

人前とは裏腹に、一人になるといつも何かを怖れている。お金がない、借金がある、自分の家がない、会社での地位が低い、リストラされた、学歴がない、信じていた人に裏切られた、誰かにいじ苛められている、重い病気を患っている、ハンディキャップをもって生まれた、差別されている、離婚した、嫁姑とうまくいかない、子供が反抗している、一人暮らしで不安⋯、等々から自信や生きる気力、希望を失ってしまうのだ。

しかし、いま置かれている自分の立場は、無視しようが、嘆こうが、落ち込もうが、怒ろうが、誰かのせいにしようが、決してなくならないし、そのままでは何も変わらない。ずっといまの自分に付いて回る。そして「ずっと付いて回るのか」と考えてまた落ち込んでしまう。人間は本当に落ち込んだり、心配することが好きな生き物である。

そこで皆さんに試みていただきたいことがある。あなたがこれまで生きてきたなかで「損した」と考えている「自分の持ち物」の項目をすべて正直に書き出してみてほしい。例えば「仕事がない、学歴がない、背が低い、美男美女じゃない、女(男)であること、両親(夫婦)が離婚したこと、貧困な家庭に育ったこと、ハンディキャップをもって生まれたこと⋯etc.」。

その上で、今度は逆にそこから得たものはないかをよーく考えほしい。リストラされて得たものは、学歴がなくて得たものは、女に生まれて得たものは、離婚して得たものは、身障者に生まれて得たものは⋯etc。書き出していただきたい。必ずあるはずだ。

そしてそのことに気付くと、人間っていかに自分に好都合に(一方的な視点で)物事を見ているかが解るだろう。

これら「苦や不自由」から得た叡知は、私たちにとって、実は計り知れないエネルギーに変わっている。健常者として生まれていたら、果たして現在の乙武洋匡(おとたけ ひろただ)氏はあったであろうか。世界には、困難やハンディキャップがあったからこそ豊に人生を送っている人たちがたくさんいる。

仙道家の島田明徳氏は彼の著書「病の意味」の中で次のように記している。『現実ここにいる、つまり、波そのものである皆さんには、自分が“海の現われ”であることが解りません。自分(波)の意識では海(無自覚)を捉えきれないために、波(自覚)だけで存在していると思っているのです。まずなによりも波(自覚)が波だけでは存在できないということを正しく理解して、海(無自覚な働き)が自分を表現させていること、すなわち「法則」があって自分はこの世にいる、ということを正しく理解しなければいけません。(中略)「波」が「海」を自覚するためには、まず波を静めることが必要です。「私は波です」といつも波立てていたのでは、自分が「海」であることに永遠に気付けないでしょう』と。

この論理に当てはめて考えるなら、乙武氏は自分の存在を海の側から感じていたにちがいない。そして、海である自分を自覚することで荒れ狂う波(不自由な自分)を静め、その結果現在の環境を手にしたのだろう。

私たちの目の前にある「苦や不自由」は、決して無意味な「苦や不自由」ではないのだ。その向う側には「楽」につながる叡知が秘められている。「苦」はひとつの現象であって全体ではない。

以前、NY大学のリハビリテーション研究室の壁に書かれた読み人知らずの「祈り」という詩を紹介したことがあった。その詩はこう締括られている。「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私は最も豊かに祝福されたのだ」と。

私は退社以来、物理的に損か得かで生きる部分を極力少なくし、楽しい、気持ちがいいと感じる方向に向かって生きよう、すべからく光のある方へ進もう、そして、捨てることを怖れまいと念じながら日々を暮らしてきた。

そしてそんな自分の想いを通して最近、「他人の評価する自分の幻影に翻弄されにくくなった自分」に出逢った。私のような凡人でも、強く念じつづければ、宇宙の法理は確かに“豊かな祝福”を与えてくれるように感じるのだ。

2002年2月